漱石の声②
漱石の声が残っているらしいという情報は、広島方面から届いた。
広島の旧家にそのブツがあるというのだ。むろん、俄かには信じがたい。まして地方に漱石関係が埋もれているというのは不自然だ。
話の出所を洗い、情報の真偽をたしかめた。
話は事実だった。広島、中国山地の小さな町にその「声」があった。加計という町のある旧家に保存されているという。
夏目漱石は周りに人材を集めた。漱石山房に出入りした知識人たち――漱石山脈。
その中に「赤い鳥」で有名な鈴木三重吉がいる。彼は広島の富裕な一族の出身であった。一時期、鈴木は漱石と親しく交わった。その頃、親戚のものを連れて漱石の前に現れた。親戚のものは当時珍しいポータブルの録音機を運んできた。これで漱石先生の声を録ろうと計画し、鈴木に相談したのだ。
漱石はロンドンへ留学した1900年に、文明の利器をいろいろ見聞している。地下鉄に乗り映画を見ている。レコード蓄音機も体験したばかりか、帰国後それを自宅においていたことは、弟子の内田百閒のエッセーに書かれている。
余談だが、百閒はレコードに詳しく、「サラサーテの盤」という短編小説があるほどだ。これが、映画「ツィゴイネル・ワイゼン」の原作となった。
漱石は面白がって録音に応じた。録音は蝋管で行われた。音信号を蝋燭の管に刻む方法だ。そして、それは加計の旧家に大事に保存されたのだ。
私はこの話をつかんで、その蝋管の所有者を探し、撮影させてほしいと申し出た。ところが蝋管は一時北海道大学へ預けられて、音声復元を試みたがうまくいかなかったという話を、所有者から聞かされた。
私の会社の技術研究所でなんとかやらせてもらえないかと、もちかけた。すると現在早稲田大学で研究されているという返事だった。
そして、早稲田で研究している教授と接触をした。なかなか復元がうまくいかず苦労していると聞かされた。
やがて、その研究概要が学術誌に発表された。
その困難の最大の原因とは、肝心の蝋管が長い年月で溶け出し変形しはじめていたことだった。
(この項つづく)
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