小津をめぐって
黒木和雄の記事で、小津安二郎の墓碑銘「無」を道学者きどりで気になると書いたところ、反論をいただいた。
《小津ファンの一人として、小津の「名誉」のためにコメントしたいと思います。
墓碑銘の「無」の文字は小津が生前から指定したものでもなく、また日ごろ「好きな言葉」として座右の銘にしていたわけでもありません。遺族(兄弟)が住職と相談した中で出てきた言葉だったと思います。映画監督としての体裁、気取りはあったとしても、道学者をきどることも、そのつもりもなかったと、小津の作品や研究者の著作から感じています。ひとつの意見として書き込ませていただきました。》
事実関係はこのコメントをしていただいた方のとおりのようだ。たしかに小津が言い残したわけではない。黒木を評価したいあまり筆が滑りすぎた。
と同時に内心ほっとした。小津の作品は好きなものが多いのだが、どこか気の許せないものを感じていた。その一つとして墓碑銘があって、その事実を知って安心したというのが本音だ。NAZOさん、有難う。
小津の危ういところ。私は上海事変に参戦した小津が気になるのだ。むろん、一兵隊だから何もできないことは分かる。だが、あの時代でも火野葦平のようなあり方もあった。兵士ではなく亀井文夫のような生き方もあった。というか、前線で小津は何かを体験したのではないだろうか。「陣中日誌」には書き込まなかった何かが。
2年前、彼の生誕百年のとき、そのドキュメンタリーを作りたいと願ったが果たせなかった。今もこだわっている。
そして、今黒木が小津の仲間山中貞雄を映画にしようとしていた。それは黒木の死で挫折したが、おそらく誰かが受け継ぐだろう。その映画のラストシーンは、「人情紙風船」を撮り終えてほっとした山中が芝生に寝転んだそこへ、赤紙が来るということを、黒木は構想していた。
映画人と戦争というテーマは、まだけっして終わっていない。小津の、山中の、伊丹の、内田の、木下の、黒沢の、「戦争」がどうであったか、研究を後に続く者はやらねばならない。
もう、そんなことは誰かがやったよという声を拒否しよう。都合の悪い大人はそういうことを言いたがる。今話題になっている『日米交換船』とて、たいていの人はもう知られた話と片付けていたのだ。鶴見俊輔に若い世代が挑んで新しい光をあてた。話題は古くても新しい光、切り口を探そう。
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