遅日幻想
久しぶりに蕪村句がしみる。
春雨の 暮れなんとして けふも有
中村草田男は、この句に特別な内容があるわけでなく、そこに流れる情感を蕪村は表したいと思っているだけと、説明している。
《存在するのは、日本人独特の季節的情感である。春雨の日暮れに日本人のことごとくが故しれず胸に抱かされるあの甘い悲哀の情調である。》
雨の日曜日。小雨がけむっている。たしかに物悲しく甘い情調を雨は運んでくる。今年ほど春雨というものが心ひかれることはなかった。ここでいう春雨とは若葉雨ではなく、そのひとつ前の雨。花冷えの雨ののひとつ後の雨だ。寒さを名残とする細い雨だ。
しかし、このところ悲哀とかさびしいとかを、すぐ私は口にする。これはいったいどうしたことかと不審に思っていたら、「病」だということが加藤秀俊の本で教えられた。『隠居学』の中に、老化の兆候を示す、仙崖和尚の教えを紹介している。
《――聞きたがる、死にとうながる、淋しがる、心は曲がる、欲深くなる。くどくなる、気短になる、愚痴になる。でしゃばりたがる、世話焼きたがる》
ありゃりゃ。死にとうながる以外すべてあてはまるではないか。なかんずく淋しがるはひどい。相当、私も老化が進んだのだろうか。
加藤はその本で「忘却力」というのを提案している。定年を過ぎれば、その責任から解放されたのだから、忘却力が増すのは当然で、さらに「忘れる自由」を行使しろと薦めている。力強い言葉だが、当方まだ1次定年でまだ責任を放り投げる立場にはない。だから忘却力は全開というわけにはいかない。と健気に決意をするものの、うらはらに忘却力は進行するばかり。
今朝も財布を忘れ鍵を忘れカメラを忘れ、玄関の出たり入ったりを繰り返した。かくして春の日はゆっくりと過ぎる。
遅き日の つもりて遠き 昔かな
この句も蕪村。前書きには「懐旧」とある。萩原朔太郎は蕪村のことを「郷愁(ノスタルジヤ)の詩人」と呼んでいたなあ。
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