ハワイマレー沖海戦を見て
昨夜、ハワイマレー沖海戦を見た。山本嘉次郎監督作品だが、特撮技術に円谷英二が貢献したとして知られる。その円谷の技術のほどを見てみようと、最近発売されたばかりのDVDをレンタルして見たのだ。
いわゆる戦記もので、戦闘シーンを中心とした60分ほどの映画だろうと、たかをくくって見ると、2時間におよぶ堂々たる作品だった。少年飛行兵が成長していって、ハワイ真珠湾攻撃に参加して戦果をあげるまでの人間の成長物語になっていた。主役の名前は知らないが、脇には大河内伝次郎、原節子、藤田進、進藤英太郎など、戦前の人気俳優が勢ぞろいしている。
戦前の長閑な田園から始まる。電柱はなく車は走っておらず、道はでこぼこの未舗装で山紫水明をまさに絵にした風景。懐かしさがこみ上げる。登場する人物も典型的な役割を果たす。母は慈母、姉はかしこく慎ましく、妹は可愛くお茶目。飛行学校へ入学してからも厳しいが情味のある教官、精神主義そのものの指導者、古武士然とした航空母艦艦長。見事なまでに人物が清く正しい。
軍隊のなかで交わされる友情、子弟の交流は流行りの言葉を使えばホモソーシャルそのものだ。そういえば、亡父は戦争について何も語らなかったが、3年に一度開かれる戦友会にはいつもいそいそと出かけていた。高野山まで行って戦死した仲間のことも弔ってきたということをいつか聞いたが、なぜ悲惨な戦争体験を懐かしむのか、当時学生だった私は理解できなかったが、この映画を見ていると、その仲間意識の生まれる土壌というのを見た思いがする。
真珠湾攻撃で完勝するなかで、敵の掃射を被弾した一機が煙を吐きながら、敵艦に突っ込んで行く場面がある。操縦士は風防を開けて、友軍機に向けて手をふる。やがて急降下する。その場面に「尊い犠牲」という字幕が出る。顔は見えないが手をふる青年の笑顔が見える気がする場面だ。感動とも怒りとも悲しみともいえないものを、私は身内に感じた。
前にも書いたが小学校高学年から中学校2年まで私は戦記少年だった。戦記雑誌「丸」を愛読し、アサヒグラフの戦争特集などにいつも目を奪われていた。好きなものは、重巡洋艦「古鷹」と「鳥海」だった。その私が心奪われたマンガはちばてつやの「紫電改のタカ」だ。「あしたのジョー」の100倍好きだった。その最終シーン。被弾した戦闘機がぐんぐん大空の彼方へ向って上昇してゆく。こめかみから一筋たらりと血を流したパイロット、意識はだんだん薄れて行く。やがて機は日輪の中へつっこんでゆき、その光の中で消失する…。
これはマンガだったが、私は感動で打ち震えた。
こういうことに共感する私は危ういのだと、大学生になってからずっと自分を律し戒めてきた。「軍国主義」にからめとられる庶民の弱さ、と否定してきた。そのことは今も変わらないが、この映画のような場面に出会うと、突然、熱いものが内側からこみあげる。
一方、霞ヶ浦の飛行学校での訓練風景には嫌悪を感じた。皆同じように行動させられロボットのように走る。ファシズムのもつ息苦しさ。弱弱しい感情はいっさい捨象させられた「軍隊」。
この両義的な私の感情というものを、別のテキスト(叔父の戦死)でこれからも考えて行こう。
最後になったが、円谷の技術は目をみはるものがある。当時の世界の水準をはるかに越えている。ただ、こういう映画を作ったことを、山本嘉次郎も円谷英二も戦後どう考えていたのだろうか。
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