突然の訃報
今夜8時過ぎ、仕事仲間のH君と会社から渋谷駅に向かって歩いているときケイタイが鳴った。出ると、衛星放送のTエグゼクティブプローデューサーだった。「黒木和雄監督が今日3時過ぎに亡くなったのだが、現在進行している番組をどうしたらいいと思う」という通報だった。一瞬、耳を疑った。黒木さんは高齢といっても74か5のはずだ。当節からいえば亡くなる年齢ではない。何か事故でもあったのと尋ねると、一昨日脳出血で倒れて危篤が続いていてのことだという。
虚をつかれた。ぽかんと精神が抜けた。現在、製作中の「紙屋悦子の青春」の撮影風景をとりこみながら、黒木の映画世界をドキュメンタリーにしようと、昨年末から構想しロケをしてきたことが一挙に崩れた。この難局をどうしたら乗り切れるか、アイディアはあるかとT氏は聞くが、わたしにも名案はない。番組の中止しかないかなと、一瞬悪夢が過ぎる。
黒木さんは、自身少年時代に級友が米軍の爆撃で目の前で殺されるという、過酷な体験をもっていて、映画のテーマはずっと小さな者の戦争であった。つまり、銃後の戦争にこだわって映画を作ってきたのだ。
「ぼくらは物凄い虚構にだまされて15歳まで生きていた」と、この国が太平洋戦争へと歩んだことについて黒木は語っている。戦局が悪化した1945年春、15歳の黒木は同級生と共に地元宮崎県の航空機製造工場に勤労動員された。
「沖縄から飛来した米軍機の爆撃に遭い、同級生10人がほぼ即死状態でした。隣を歩いていた宗方君のざっくり割れた頭から脳漿があふれてくる瞬間を見て、恐怖のあまり、ぼくは夢中で走り出しました。救おうともせず、逃げたのです」。この体験は彼を生涯つかんで離さない。
「美しい夏、キリシマ」「TOMORROW/明日」「父と暮らせば」、すべて同じ主題で銃後の人たちの境遇を描いてきた。戦争の悲劇はけっして最前線だけではない。そのことをしつこく静かに黒木監督は語り続けてきたのだ。
そして、戦争4部作、最後が今回の「紙屋悦子の青春」だったのだ。特攻隊員と特攻基地地元の女性の束の間の恋が描かれるはずだった。
4月の初めに、わたしたちの取材班がこれまで撮影したラッシュを荒く試写して、私も今回の映画作りの様子を見ている。そこに出てくる黒木さんはこれまで寡黙という印象があったが、まったく違う印象があった。どうしても戦争の不条理、不合理なことを若い世代に言いたいという情熱が垣間見えた。朴訥な黒木さんは舞台が九州ということで、九州弁にずいぶんこだわっていたのが印象に残っている。
わたしたちの番組の今後については、明日じっくり関係者で議論しなくてはなるまい。
ただ、きな臭い現在の日本社会にあって、あの戦争の矛盾を長年にわたりみつめ、静かに日本の侵したさまざまなことを語ってきた製作者がまた一人消えた。そのことが辛い。
この記事は渋谷よりもどって急遽打っている。ただいまの気持ち、気分をここに残しておきたいと思ったのだ。
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