山中貞雄の短い生涯
山中貞雄は人生を急いだ。27歳という若さで撮った映画が「人情紙風船」でこれが遺作となる。翌年、中国戦線で戦病死する。
山中の遺書にこんな一節がある。
「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ。負け惜しみには非ず」
そりゃ、そうだろう。これから映像をいろいろ工夫して、面白い作品を作りたかっただろうに。伊丹万作は山中戦死を聞いて、映画はまだ彼の人間性に追いついていないと厳しく批評しながらもその才能が途絶したことを心より惜しんだ。
山中の夭逝は今も人のこころを捕らえる。黒木和雄監督は次作に山中の人生を予定していると聞いた。山中は21歳で監督第1作を撮りはじめ、27歳で終わる。そもそも、山中はマキノ監督の息子と同級生ということもあって、若い頃から撮影所に出入りしていて、映画に関して早熟だったのだ。
彼の才能は無声映画によく表れた。字幕の使い方が抜群だったのだ。「小判しぐれ」の例を紹介する。画は画面、字は字幕の略だ。
画:川 字:「流れて」
画:流れ行く笠 字:「流れて」
画:美しい山 字:「此処は」
画:美しい野 字:「何処じゃと」
画:街道1 字:「馬子衆に問へば」
画:街道2 字:「此処は信州」
画:街道3 字:「中仙道」
字幕を効果的に使ってムードを作ったり場面を転換したりするのが、山中は得意だった。字幕の文体は日本人が好む七五調。北川冬彦は山中のことを韻文作家と呼んで評価している。
デビュー作「抱寝の長脇差」のときから天分は光っている。台詞回しがすごい。やくざの源太と幼馴染のお露との別れの場面。
「お露さん、時節が来たらまた会おう」と源太は行こうとする。――悲しそうにお露。
「時節を待つのもいいけれど、あたしも二十四、女は汚くなったらお終いだからねえ」
源太はやさしく、「そんなこと言っちゃいけねえ、お露さん。幼い昔を思い出しねえ、お前を背負って歩いた俺だ。言ってみれば妹同然、亭主持つなら堅気がいいぜ」と去る。
お露の目に涙が光る。
――どうだろう。亭主持つなら堅気がいいぜ、殺し文句だ。「旅笠道中」は、この後作られていることは言うまでもない。
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小津安次郎と山中貞雄