木戸銭を払う客はあまくないぞ
ツタヤでビデオを4本レンタルしてきた。まず2本見た。溝口監督の戦時中の作品「名刀美女丸」とハンフリー・ボガードの「マルタの鷹」だ。
溝口作品はたいしたことがない。解説では戦争のさなかにあって、軍部をうまく篭絡させてこの作品を作った、などと美談になっているが、いわゆる講談調で勧善懲悪の月並を抜け出てはいない。そういうものだと思う。小津にしろ溝口にしろ黒澤にしろ、彼らが戦前から傾向映画としてやってこれたとは思えない。みな時代の制約下にある。
だからたいしたことがないということを言うつもりではない。むしろ、そういう制約のもとで、大衆芸能として製作してきた監督たちがどこから作家意識に目覚めたかが気になるのだ。
80年代のころから映画の芸術性が喧伝されるようになり、監督たちがずいぶん問題意識をもった作家のように評価されることが多くなった。はたしてそうなのか。小川徹ではないが深読みではないのか。映画製作の現場では実際的な理由で撮影したことなど、さも意味ありげに説く批評が近年多くなったと感じる。蓮見という人物のもってまわった批評の仕方には胡散臭さを感じてしかたがない。彼の影響ででてきた映画関係者を立教派とくくるそうだが、黒沢清の映画はそれほどたいしたものなのだろうか。
どうも、さきほど恵比寿からの帰り道に東京写真美術館でのことが腹にすえかねてか、見るものすべてにけちをつけたくなる心境だ。というのは、入館して500円の入場料をとられたがとても展示はその代金にみあう代物ではなかった。3つの展覧会があって、全部通すと1200円、ひとつだと500円というので、「日常の中の私」というのだけに私は限定して観覧した。
はいって、20分で見終わるような貧弱な展示、写真だというのにムービーで表現するコーナーが多い。「カラス」という作品には噴飯より怒りを覚えた。背景にうっすら島影がある。解説によるとそれは硫黄島。その前景にカラスのむれがちらちらと飛ぶという映像。音声には戦時中の「東京ローズ」のディスクジョッキーの録音が流れる。
これが何だというのだ。近年増えているカラス公害をあるポイントから見る、などという陳腐な解説がついていたが、とても批評の対象にならない。思わせぶりな硫黄島、東京ローズ、不吉なカラス。
同じ料金で見た目黒美術館のアニメ作家の展示のほうがはるかに優れていた。写真美術館はこんなことでいいのか。なぜ常設展がないのだ。写真芸術の凄みをきちんと伝えるべきではないか。
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