雑賀教授一家
広島平和公園の慰霊碑に有名な碑文がある。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」雑賀雅義広島大教授の考案である。
この碑文をめぐって、碑ができた直後から論争がある。今年の夏の特集で、私はその文章の真意というものを追求していこうと考えている。そのために関係者を取材して歩いている。
本日、雑賀教授の次男飛龍氏と会って、2時間にわたり話を聞いた。教授はずいぶん前に亡くなっており、飛龍さんも裁判官を退職して10年になるという。碑文をめぐってのエピソードは帰京してからきちんと整理して書くことにするにして、ここでは雑賀教授一家の原爆被災した話を書く。
昭和20年8月6日、雑賀教授夫妻は自宅で被爆した。飛龍さんは当時高校生で、広島高校のグラウンドで被爆。運がよくコンクリートの建物の影になったため飛龍さんはほとんど無傷だった。爆心から2キロほどにいたが、あまりの爆発に自分が狙われたと思った。親が心配するだろうと、すぐに家をめざした。市内は大火事となり混乱していたが、川ひとつ隔てたところにあった自宅は半壊しただけであった。親子は再会できた。それからの数日間は壊れた家の補修に明け暮れた。
私は飛龍さんに「当時の被災状況を雑賀教授はどのように見ていたのでしょうか」とたずねると、「近所や知り合いが次々に倒れてなくなる。もっとひどい災厄が来るのではないかと不安がいっぱいだったし、あの悲惨な状態をどう見るなどという余裕もなく・・・」といって、飛龍さんは絶句した。
それまで沈着に話していた飛龍さんが、突然言葉を失い冷静でなくなった。当時の悲惨を思い出したのか、苦しそうな表情に変わった。
判事という職業がらけっして取り乱すことがない人物ですら、60年経った今ですら、原爆は心の深い傷となっている。長崎と広島に住んで、被爆のことを勉強した私でも、被爆の傷のことはいつのまにか分からなくなっていた。というか、実際に体験した人の苦しみは本当には理解できていない、そのことを本日思った。
雑賀教授は、この残酷な被爆の現実をしっかり見、あの碑文を書いたのだ。
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