
ウルトラ星へ去った人―13
東京オリンピックが昭和39年に開かれた。私は高校1年生で愛国心に燃えていた。あれほど日本人であることを意識したり日本人選手を応援したことは後にも先にもない。90カ国から来た外国人選手らに対して、まるで自分の家に客を迎えているような気分だった。だから日本が15個の金メダルを獲ったとき本当にうれしかった。
特に体操競技は、個人と団体、課題と自由、という種類もたくさんあって、長丁場の闘いに一喜一憂した。
ヤマ場は遠藤幸雄選手のあん馬だった。私は期末テストの真っ最中だったが競技のことが気になってしかたなかった。厳父は私のテレビ視聴を禁止した。しかたなく机に向ったが、襖一枚へだてて歓声が上がるたび気になって仕方がない。いよいよ遠藤選手が登場した。弟らの声が高まる。我慢がならず私は襖を開けた。父は何も言わなかった。
手に汗を握って観戦していると、演技の半ばで遠藤選手があん馬で尻餅をついた。愕然とした。目の前が真っ暗になった。これで日本の、団体も個人も優勝はなくなったと思った。
しかし、その後の日本選手の奮起がすごかった。難易度の高い技、「きりもみ降り」「新山下跳び」「プロペラ旋回」などがつぎつぎに繰り出された。技はやさしいAから始まって、B、Cと続く。もっとも難易度の高い技はウルトラCと呼ばれた。アナウンサーはその「ウルトラC」を連呼した。幸運にも日本体操は個人、団体で総合優勝をはたした。ウルトラCはオリンピックが終わっても話題となった。年が改まり、40年になっても流行語だった。
東宝は早くから怪獣映画に手を出していた。
昭和29年には、特撮映画「ゴジラ」を製作して世間をあっと言わせた。大ヒットとなった。特撮技術の中心は円谷英二監督であった。東宝はその後10年間怪獣特撮ものを年に2本製作してきた。
オリンピックの年39年も怪獣の当たり年だった。「モスラ対ゴジラ」「宇宙大怪獣ドゴラ」「3大怪獣、地球最大の決戦」と3本を次ぎ次に繰り出した。
その頃 円谷プロはTBSから怪獣のテレビ番組を作らないかと打診を受け、円谷英二、金城哲夫が中心になって、「ウルトラQ」という番組をワンクール13本製作する。大伴もプランナーとしてここに参加していた。このタイトル「ウルトラ」は言わずと知れたオリンピックの流行語から来ていた。
だが、怪獣のテレビ映画を造ったものの、その番組はお蔵に入っていた。お茶の間にこんな怪獣のようなものを登場させたら世間の批判を浴びると、TBS側がためらったのだ。そこで、少年マガジン誌を使って怪獣ブームを画策するため、大伴がマガジンの内田編集長に会いに行ったというのは、前に書いた。
この「ウルトラQ」が放送されるとたちまち子供たちの心をつかみ大きな反響が起きた。日曜午後7時からの放送は平均視聴率30㌫を超えた。空前の怪獣ブームが起こって行く。次のシリーズもウルトラコンセプトは生かされる。ウルトラマンの登場なのだ。
この人気シリーズを製作した当時円谷プロに集まる面々は実に多士済々だった。凄い才能が渦巻いていた。
まず監督の円谷英二、長男で当時TBSにいた円谷一、同じくテレビから来た演出の飯島敏宏、中川晴之助、実相寺昭雄、脚本家として金城哲夫、藤川桂介、上原正三、佐々木守、山田正弘、市川森一。
このうち何人かが物故された。円谷父子、金城、そしてつい先日佐々木守さんが亡くなったばかりだ。
実は、来る28日に開く「大伴昌司の会」にはこのメンバーの何人かに来ていただこうと考えている。そして、当時のエピソードをさらに克明にインタビューしていこうと考えている。
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