西行さんの歩き
今朝、もみじ山を下りながら写真を数枚撮った。山中があまりに朝の光で美しかったのだ。
遠望する相模湾は金色に輝いている。みちのべに映る私の影は濃い。梅の花は青空に映えて可憐だ。木の芽がぷっくらと膨らんで今にも弾けそうだ。
故郷(くに)に木の芽川という名の清流が街中を貫流していた。水源は木の芽峠から来る。この峠は泉鏡花の「高野聖」で舞台となった場所。今頃、あの峠では青い芽、赤い芽、黄色い芽がいっぱいにふくらんでいるだろう。でも、近年その地に産業廃棄物の処理場となって水質が汚染されていると聞いた。かなしくもあり腹立たしい。
たしかに、厳しい冬を越えてくると春がうれしい。また、木々の花に逢えると思うと「いのち」があったことを感謝する気分だ。年々歳々花相似たり――去年の花ではないが似たような花と逢えることの喜びというものはある。当方にもいのちがあり、花にもいのちがあって此処に在るという喜び。
あの西行の歌を思う。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
このような老いの身となって、また越えることができるなんて思いもよらなかった。小夜の中山という難所を。越えることができたのは命があったからだ。大いなるものに感謝したい。というような意味であろう。
この歌は単に季節の春を歌うだけでなく、人生の春も歌っていると思えてならない。つまり厳しい冬(人生論的苦難)を乗り越えて、今この坂を登ってゆくここち、人生の春を迎えてこそ、まさにいのちですよ、と西行さんは説いているようだ。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング
