竹久夢二のこと
夢二というと儚い女を描き女性遍歴を重ねた、軟弱な人物のように思われがちだが、実像はそうでもないようだ。
30年前にラジオ番組で俳優の米倉斉加年さんから話を聞いたことがある。米倉さん自身現代の浮世絵師のような才能をもった人でその関心からも夢二の生き方を調べていた。米倉さんは夢二の生き方の鍵は彼が作詞した「宵待ち草」にあると見ていた。
待てど暮らせど 来ぬ人を
宵待ち草の やるせなさ 今宵は月も出ぬそうな
待ち人来たらずの女の思いをせつせつと歌い上げた曲として名高い。この歌にあわせて描かれた夢二の同名の絵によって、大正ロマンのイメージがはりついている。が、米倉さんはそう見ていない。この歌には二重の意味がこめられていると米倉さんは考えた。
夢二は一時「平民新聞」で挿絵を描いていた。幸徳秋水らの社会主義思想に共鳴していた。ところが、1910年起きた大逆事件によって幸徳らは処刑される。夢二もその圏外へ追放されてゆく。新しい時代、共和的に人々が生きる新しい時代を夢見ていた夢二には“失楽園”となるのだ。待てど暮らせど、来ぬ「新しい世」――夢二の歌には恋心を歌うかにみせて実は社会主義への思いを重ねていた、米倉さんはそう見ていた。
1930年に夢二は外遊する。無一文で日本を飛び出し、まず立ち寄ったアメリカで自分が描いた絵を売って資金を工面することにした。彼の絵を買ってくれるのは日系アメリカ人しかいない。現地の日本人会に顔がきく人を頼るしかない。夢二は知人からロサンジェルスに住む日本人ジャーナリストへの紹介状を書いてもらった。宛名は四至本八郎、大伴昌司の父である。
八郎は夢二のために展覧会を開き日系人への売り込みを手伝った。その甲斐あって絵は思いがけず多数売れた。ヨーロッパへ回るに十分な資金を夢二は得た。八郎に礼をしたいと一枚の大きな絵を差し出したが、八郎は遠慮した。
四至本アイさんは後にその話を聞いて八郎に「もらっておけばよかったのに」と愚痴をこぼすと、「だめだよ。あんな挿絵なんかもらってもたいしたことがないさ」とけらけら笑っていたそうだ。
ロスアンジェルスには夢二の絵がたくさん残ったはずだが、それらはどうなっているかと私はアイさんに聞いた。
夢二がアメリカを去って10年後、太平洋戦争が始まり西海岸の日系人はマンザナールの強制収容所に入れられることになる。その際、家や家財は中国人たちに売った。夢二の絵の価値など分からない人たちの間では、その絵の運命は儚いものになってゆく。
四至本八郎の著作に「日系アメリカ人」というベストセラーがある。
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紅葉山に雲がわく。