長崎浦上のやさしい人々
20年前長崎で勤務したとき、ここでの自分の主要な仕事は3つと心に決めた。長崎原爆、大水害、キリシタン。赴任した昭和57年の7月、集中豪雨が長崎を襲い299人の犠牲者を出す大水害となった。それが直近の問題としてあった。原爆被害は長く深刻な事態は続いており人類の大きな問題をとして私の前に横たわっていた。
まったく予期しないテーマがキリシタンだった。クリスチャンの家庭に生まれたがカトリック特に長崎信徒のことは皆目知らなかった。ところが私の住んだ住吉はカトリックの本場浦上にある。朝夕の鐘の音を聞くと次第に目が向くようになった。
浦上天主堂が建つ場所は昔からの聖地だ。江戸時代禁教令が出たため、かつてこの浦上一帯にたくさんのキリシタンが潜伏した。あらゆる手段でその信仰を250年間守り続けたのだ。世界宗教史でも稀な出来事といわれる。俗に隠れキリシタンというが、それは隠れ念仏と同一視されるので正確には「潜伏キリシタン」と言う。大半が百姓であった。
祈る姿を見られてもクルスをもっていても処罰されるのだ。潜伏するためキリシタンはあらゆる方法を使って信仰を守る。
浦上から岩屋山がよく見える。山の峰は西を向いている。夕日は岩屋山の彼方へ沈んでゆく。その山を信者は聖なる山とした。山に向かって祈る。それをたしか10回重ねれば、岩屋山に1回登ったこととなるはずだ。岩屋山に3回登ればローマの大本山へ行ったことになる。こう考えてキリシタンたちは山に祈った。
私も朝な夕なにこの山を眺めた。夕暮れ金色に輝く岩屋山を見ると、パライソ(天国)を思わずにいられなかった。
感動的な出来事が起きた。
幕末、文久3年(1863)にフランス人神父が長崎大浦へ来て天主堂を建設する。長崎の町中でフランス寺が出来ると評判になった。浦上の人々にも伝わる。もしやわれらが守りとおした信仰の「寺」ではないかと尋ねたいが、役人に見つかればご禁制破りで捕捉される。
そして慶応元年(1865)3月17日、大浦天主堂は見物するおおぜいの客で賑わっていた。その中に浦上から来た5人の男女がいた。その中の一人の婦人が突然、声を出した。「サンタマリア ノ ゴゾウハ ドコ」
決死の覚悟かそれとも信仰が迸ったのか。プチジャン神父は驚いた。続けてその婦人は
「ワタシノムネ アナタノムネ トオナジ」と胸を指しながら言った。
日本近世史でこれほど感動的なことがあるだろうか。私はこのエピソードを聞かされたとき、こういう人々がなぜ日本社会の中に出現したのか、その人たちの末裔はどう生きているのか知りたいと、つよく思ったのだ。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング