ウルトラ星に旅立った人9
大伴の父は四至本八郎といって戦前活躍したジャーナリストである。早稲田大を卒業後アメリカに渡り20年、ロスの新聞社などで勤めて見聞を広め知己を作った。いわゆるアメリカ通である。
さて、その父は昭和13年に妻子をともなって商工省の出先機関、メキシコ貿易事務所所長として赴任する。ここで日――墨(メキシコ)貿易の振興のためにおおいに力をふるった。
そして運命の昭和16年をむかえる。日米衝突の危険が迫りつつあった。
八郎の身の回りにも不穏な空気が流れた。オフィスの隣室には得体の知れない米国人が住みついた。八郎は監視されるようになったのである。
日米会談が行き詰まった。近衛内閣が倒れ東条内閣が出現。開戦が近づいたと思われたので、八郎は妻子を日本へ帰すことにした。母子は9月に出発して10月帰国。この帰国でも苦難は遭ったが開戦前ということで、とりあえず無事日本へたどり着いた。この旅の途中北太平洋で5歳の大伴は喘息の発作を起こした。
父八郎も帰国が急がれる状況となった。最後の引き揚げ船龍田丸がサンフランシスコから出ることを聞いて、乗船を申し込んだがアメリカ入国のビザが下りなかったので断念した。やがて10月末に南米へ鉱石を買い付けに行く貨物船がメキシコに寄港することが分かり、その往路から乗り合わせることを申し出許可された。
10月25日、鳴門丸に八郎は乗船した。メキシコからペルーを経てチリまで南下。そこで銅鉱石を積んで、反転して一路日本をめざす。緊張して北米海岸を通過する最中、12月7日(日本時間8日)をむかえる。連合艦隊が真珠湾を攻撃したのだ。とうとう開戦した。八郎の前途は危険に満ちた。アメリカ沿岸を避けるべきにもかかわらずそのコースを船長はあえてとった。敵の防衛体制の本陣を衝く奇襲作戦に出たのだ。
この日から、翌17年1月3日に横浜入港するまで決死の帰還となった。八郎の著書『開戦太平洋脱出』の目次を紹介する。
第1 開戦の飛報来る 第2 危険水域突破の準備 第3 危険水域を突破す
第4 ヂグ・ザグ・コース 第5 180度線を越えて 第6 日本近海に入る
第7 懐かしい祖国の土を踏む
まるで山中峯太郎の熱血小説『敵中横断三百里』さながらのルポルタージュだ。この本のサブタイトルは「鳴門丸の奇蹟的帰還」である。この本は昭和17年に出版されておおいに話題になる。八郎はこれを書くにあたりデータや情報をかなり収集し克明な日記をつけていた。そればかりか8ミリ撮影機やカメラを駆使してファクツを確認している。
こういうジャーナリストセンス、表現の柔軟性などは後に大伴昌司の資質の中に見出されるものであった。
1月3日、横浜上陸した八郎の前に、宇都宮から駆けつけた四至本アイと豊治がいた。
父、四至本八郎の戦前の著書を以下列挙する。
是でも米国か(昭和7年)、テクノクラシー(昭和8年)、ルーズベルト世界再建論(昭和8年)
頭脳トラスト(昭和8年)、日米はどうなるか(昭和9年)、日系市民を語る(昭和10年)
動くジャーナリズム(昭和12年)、シナ人街(昭和12年)、アメリカ異状あり(昭和14年)
四至本豊治少年は、父のこの行動をどう見ていたか、おいおい浮き彫りにしたい。さて、この大伴昌司伝を書き始めると、内外からさまざまな事実を教示いただくようになった。例えば、終焉の記などは内田勝さんからいくつか指摘を受けた。それを取り込みつつ大伴昌司の像をさらにクリアなものにしていきたいと考えている。
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鳴門丸の甲板から
右が八郎