久世光彦さんの死
昨日の朝、久世光彦さんが死んだ。
昼ごろ、同じ事務所の渋谷さんから連絡をもらった。たしか久世さんは東大で大江さんと同級だったから70歳になったばかりのはずだ。何か持病があったのかと聞くとそんなものはなかったはずという返事。昨日まで次のドラマのプランを立てていたというから、突然の死だったにちがいない。
久世さんの事務所カノックスとはかれこれ6年の付き合いだ。「向田邦子さんの恋文」の番組を作ったときからになる。久世さんはドラマの演出家だったから実際に私とドキュメンタリーを作り上げたのは澁谷プロデューサーである。彼を通じてこの数年久世さんともお会いしてきた。食事をともにしたこともある。「恋文」で総務大臣賞を受賞しパーティを催したときも駆けつけていただき、スピーチしてもらったことがある。
私が大江健三郎さんと光さんのドキュメントを作っているころ、久世さんは光さんの曲をテレビドラマのテーマとして使ったことがある。そのとき、大江さんから久世さんは同級生だということを聞いた。
「時間ですよ」のような破天荒というかアナーキーな番組つくりをする人だった。私生活も昔の文士のような生き方をされた。それもそのはず、久世さんは後年テレビより文章の人、作家として活躍するようになった。小説は現代版泉鏡花のような作風で華麗な言葉を駆使するタイプであったと思う。私はそれほど小説は好きではないが、エッセーがよかった。向田さんと同じ戦前から戦後まもなくの近い過去を舞台にした話がよかった。北陸富山の少年時代、東京山の手の戦後、懐かしい筆調がさえていた。それと歌謡曲には一家言をもっていて、久世さんは香西かおりのために詞を書くほどである。歌の思い出をつづった「マイ・ラスト・ソング」というエッセーがすばらしかった。最後に聴く歌はどんな歌かという詞華集だ。私のマイフェバリットソングは、そこからヒントをもらっている。
3年前、カノックスの人たちと「最期のひばり」というドキュメンタリーを作ったことがある。私が制作統括をした。このときも、生前のひばりさんと付き合いがあるということで、ひばりさんの遺族との交渉にも出向いていただいたことがある。番組はその年のNスペ最高視聴率をとって話題を呼ぶ。この番組の制作陣に名前を連ねられた。そのことを、久世さんはとても喜んだ。
私が出会ったのは晩年の久世さんだ。ずいぶん物分りのいい紳士だった。昔を知っている人から聞くと、往年とはまったく変わってしまったという。かつては相当のワルだったようだ。その名残りは服装にあった。いつも仕立てのいいスーツといい靴を(多分、イタリア製)履いていた。でも不思議なことに歯は抜けたままで入れ歯を作らなかったのだ。口元だけ老けていた。あのダンディな人がなぜだろう。
最晩年の仕事として、森繁久弥さんの聞き書きがあった。「七人の孫」以来の付き合いから始まった大切な昭和史の記録だった。パートナーを失って森繁さんの嘆きは深いだろう。森繁さんはかつて若い向田邦子を失い、今また年少の久世光彦が去ったのだから。
久世さんの本当のラストソングは何だったのだろう。ちょっと聞いてみたい気がする。
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