ウルトラ星に旅立った人7
私が大伴の人生を昭和62年に番組で描こうと思ったのは、その奇怪な死と意外な経歴を知ってからだ。特に彼が亡くなったとき変死体扱いされたという事実は衝撃だった。
1973年(昭和48年)1月27日新橋の新橋亭で日本推理作家協会の新年会が開かれた。恒例の犯人探しゲームが始まったばかりの午後8時、大伴昌司は倒れた。
少し気持ちが悪いと言って、青い顔した大伴が別室の控えの間に入ったときのことだ。ぐらっと揺れてそのまま畳に体を投げてしまった。従業員は声をかけすぐ介抱したが、容態は最悪だった。まもなく大伴は絶息した。
この死について風聞が流れた。かねがね40歳まで生きられないだろうと大伴が吹聴していたので才能が枯渇する前に死を選んだのではないかとか、睡眠薬を過剰に服用したのはないかとか、持病の喘息が出て慌てて薬を飲もうとして量を間違えたとか、さまざまな臆説が飛び出した。
実相はどうであったか――。
薬を誤って服薬したあとは見られず、別室に入った途端倒れそのまま死に至ったことは従業員も目撃している。大伴の正体を知らない推理作家協会では連絡先も分からないので警察に届けた。そこで遺体はいったん最寄の愛宕署に運び込まれて行政解剖を受ける。死因は発作による心臓停止であった。この解剖結果については母四至本アイさんがしっかり記憶している。おそらく過労からくる心臓発作によって彼の命は絶たれたと思われる。
この日、小松左京は大阪から上京しており大伴の亡くなる4、5時間前に連絡をとりあっている。推理作家の新年会が終わったらSFの作家たちと落ち合おうと大伴は約束していた。その時刻まであと30分というときに小松は大伴の訃報をうける。「嘘だろう」と小松は電話相手に言い返した。当時SF作家たちはよく冗談で人をかつぐことが多かったから、今回もそれだろうと笑い飛ばしたのだ。だが事実と分かって愕然とした。
いっしょに会う予定であった平井和正や石川喬司にも連絡して皆で愛宕署へ駆けつけた。霊安室に安置されている遺体を見たとき唇にうっすら血がついていたことを、石川は覚えている。
駆けつけた仲間たちは10年近い付き合いにもかかわらず彼の正体をまったく知らなかった。身寄りがないと信じていた。SF作家たちが金をもちよって皆で葬式を出すことになるだろうなあと小松は考えていた。
翌朝、大田区池上の彼の家へ遺体を連れて帰った。小松たちが車から運び出そうとわさわさやっていたら隣接する家の老婦人が声をかけてきた。「息子がどうしたんですか」
小松も石川も平井も吃驚した。てっきり天涯孤独の身だと思っていた大伴は両親の隣に住んでいたなんて、思ってもみなかったのだ。
常々、大伴は母アイさんに絶対親子だと名乗るなと口封じしていたのだ。仮に電話を受けることがあってもまるで下宿のおばさんのように振舞えと大伴は母に「命令」していたのだ。聡明なアイさんは面白がってそれを忠実に守っていた。それは功を奏して慶応の仲間たち以外仕事仲間は誰も大伴の正体を知らなかったのだ。
今回、私はアイさんに喘息の持病について幼い頃からあったのかと聞いた。
たしかに喘息はあった。例の戦争が始まる直前、アメリカから帰国する際太平洋横断はジグザグのコースを辿っている。そして高緯度のカムチャッカ諸島あたりまで移動したとき寒冷アレルギーからくる喘息症状を5歳の大伴は起こしたと、アイさんは証言する。ただ、それはたいしたことではなく成人になってからはほとんど発作はなかったはず。鼻が悪かったようで点鼻薬を使っていたかもしれないと語った。それも軽い薬だったという。つまり死因は薬の誤飲ではない。
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