お墓が出来たときSF作家たちは鎌倉まで参拝に行った
ウルトラ星に旅立った人⑤
本気で大伴昌司に取り組むことにした。
私が彼の番組を制作して19年経った。この間、大伴を取り巻く状況は変わり
さらに神話化されていった。
去年のNYでの成功はますます現代日本における彼のポジショニングを広げつつある。
――1973年に死んだ大伴は、1980年代に発生したオタク文化の先駆者と目されつつある。
現代日本文化を代表するオタクという現象。評論家さわらぎのいによれば、アーティスト村上隆は「オタク文化を、太平洋戦争に敗北した日本に特有の文化現象だとして」とらえようとしているそうだ。村上はNYの展覧会のプロデューサーである。
もし大伴がオタクの先鞭をつけたとすれば、彼こそ敗戦日本の中から生まれた特有の現象をになっていることになるはずだ。その検証はまだ誰もやっていない。
大伴はオタクの先駆者、オタクの元祖として定立できるだろうか。まずこれに挑みたい。
そのために2つの条件を整理しないと。1つは、大伴の全生涯をできるだけ正確に描きだすこと。秘密主義であったため、彼の人生の虫食い状態を埋めなくてはならない。各人が勝手に推測解釈しているのを洗い、できる限りのファクツを集めて不明瞭な部分を埋めて行く。2つめは彼が築いた労作(トラヴァイユ)はその後のオタク文化とうまく接続しているかということだ。
私は80年代から起こってきたオタク、お笑い、パソコンなどにこれまで関心をもたなかったので、オタクというものをどれほど把握できるか見当もつかないが、これまで出版された文献などを通して、この検証をやってみたいものだ。
大伴問題のもう一つの鍵は、彼が関わった仕事(トラヴァイユ)はチャイルディッシュ(子供っぽい)なもので、本格的な小説、シナリオにその後乗り出していくはずだったという伝説の検証だ。
少年マガジン誌で作り上げた大伴ワールドは、彼の人生の中間点であって到達点ではないという噂をたしかめたいのだ。36歳で早世したが生きていればきっと彼は本格SFを書き上げ、文明評論をものしていただろうと見るムキがあるが、果たしてそうであろうか。
プロレスでもジュニアヘビーの選手が力をつけると、ヘビーに転向してそこで大物になって初めて成功という評価と、獣神ライガーのようにジュニアヘビーの最高位を極めることを本分とする生き方と、二通りの評価がある。私は大伴はヘビーでチャンプになることを望んでいたとは思えない。積極的にジュニアヘビーで戦うつもりだったと、見たい。きっと大伴はジュニア文化つまりオタク文化、オタク道をまい進していたと思うのだが、これも検証を要する。
これらの命題をこれから考えていきたい。この記事を読んでいる方たちの意見もぜひ伺ってみたいものだ。
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