日曜は詩を読んで
この冬は北海道へ2度も行った。北海道の雪は私の故郷(くに)と違って軽くて冷たい。
日中陽がさしていても雪は舞う。夜ともなれば、雪はやんでも積雪が街灯に照らされてうす青く輝く。この景色を見るたび、私は伊藤整の詩集「雪明りの路」を思った。
雪明りの人
雪の降る夜毎に
ひとり私を訪ねて来る人がある。
夜更け
私は睡っていて知らないけれども
街じゅうに吹雪が吹きすさみ
家並が雪にうづまるときも
その人は
うすい歯の足駄をはき
紫の角巻に顔をかくして来て
指で私の窓の雪をおとし
夜すがら泣いて語っては
夜明けの雪明りの中をさみしく帰ってゆくのを
私は朝になってからよく知っているのだけれども
かなしい私に結び付けられた人よ。
私が寝付いたときには来て
一日街の乙女らい目を燃す私を
その人は いつも泣いていさめて行くのだけれども
若かった伊藤が自費出版した美しい詩集の題は、今や小樽の町のキャッチフレーズになっている。泉下の伊藤は苦笑しているだろうなあ。
菅原克巳というプロレタリア詩人がいた。1977年に『遠い城・ある時代と人の思い出のために』という本を小さな出版社から出した。地味だが実に素敵な群像が詩とともに描かれていた。その人の処女作ともいうべき小さな詩。
お通夜あけ
仏壇には
まだあかあかと灯りがつき、
こどもたちは花片のようになって
すやすや寝入っている。
みんな、みんな
夢のように過ぎてしまうことならと
お母さんも姉さんも涙ぐんで、
お通夜あけの冬空を流れる
朝風の音を聞いている。
本棚に、中野重治全集全19巻がある。先年青山の古書店で手にいれた。時々出して読む。
中野の風景を見る目は、まさに北陸人と思うてしまう。
しらなみ
ここにあるのは荒れ果てた細長い磯だ
うねりは遥か沖中にわいて
より合いながらよせて来る
そしてここの渚に
寂しい声をあげ
秋の姿でたふれかかる
そのひびきは奥ぶかく
逼った山の根にかなしく反響する
ぐわんぢやうな汽車さへもためらひ勝ちに
しぶきは窓がらすに霧のやうにもまつはって来る
ああ 越後のくに親不知市振の海岸
ひるがへる白浪のひまに
わが旅の心はひえびえとしめりを帯びて来るではないか
むろん、しめりを帯びざるをえない彼の旅とは何かを知らなければこの詩を曲解するのみだが。故あって都落ちする途上の風景であることには違いない。
伊藤整、菅原克巳、中野重治、と来れば、大阪の詩人小野十三郎を引き出すしかない。戦争末期の大阪湾の重工業地帯の荒景を描いた詩。
明日
古い葦は枯れ
新しい芽もわづか。
イソシギは雲のやうに河口の空に群飛し
風は洲に荒れて
春のうしほは濁ってゐる。
枯れみだれた葦の中で
はるかに重工業原をわたる風をきく。
おそらく何かがまちがってゐるのだろう。
すでにそれは想像を絶する。
眼に映るはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ。
光なく 音響なく
地平をかぎる
強烈な陰影。
鉄やニッケル
ゴム 硫酸 窒素 マグネシュウム
それらだ。
風景をうたいあげることを叙景という。このごろ、この手法が気になってならない。
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春を待ち望むもみじ山