
まぶしい光の中で
昨日は立春だったっけ。暦では春。
寒さはきついが、日の光はあきらかに春になりつつある。
寝床の中で、夕べの荻窪のことを思い出していた。
ポロン亭まで、カズコさんが私に会いに来てくれたのだ。
昔、ともに現代日本史の勉強会を企てたなかだ。その会はすぐ潰れたが。
カズコさんの旦那、ドピローと最初友達だった。むろん年長の。
ドピローは新宿三越裏のぼろん亭のマスターだった。彼自身、高い知性の
持ち主でその徳を慕う文化人学生が多い店だった。ドピローを知ったころは独身だったが
やがてカズコさんと結婚した。みんな天沼に住んでいた。
当時、私は風呂なしのアパートにいた。たいていのものはそうだった。
銭湯利用になるのだが、夜おそくまで遊んでいるとすぐ風呂がなくなる。ときどきドピローの家で風呂を借りることもあった。そして酒盛りとつづく。その中心にポロン亭ママのミヨがいた。ゴッドマーザーだった。
ポロンというのは水がめという意味で、店に素焼きのキューバ製のものが飾ってあった。
ミヨが若いころキューバのサトウキビ刈のボランティアに参加した記念のものだ。その部隊でミヨとコーイチは知り合ったのだ。
ぼろん亭はあの伝説的な新宿風月堂のそばにあり、風月堂なきあと文化人、知識人がよく利用する店となった。ドピローは不思議な人で、さまざまなことに深い知識をもっていた。特に仏教に関しては難しい言葉をぽろっと漏らした。ただし、当人はいたってシャイで言ったあと恥ずかしそうにしていた。
私が11年前脳内出血で倒れたときも、昔の仲間らは心配してくれた。だが、あんなに頑丈そうだったミヨが癌で死んだ。数年後、ドピローは脳内出血で倒れた。私と違ってドピローの症状は深刻で予後も闘病が続いた。今もがんばっている。
こうして、思い出を書き出していたら、次々にシーンが浮かんでくる。ある人は亡くなりある人は
消息不明となった。
朝の光の中、目黒を出て大磯へ帰る。相模川を渡るとき、遠く大山、丹沢がくっきり見えた。相模川の水が蒼い。まだ水光るとまではいかないようだ。鉄橋を渡るとき、万太郎の句を思い出した。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに
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