立川清登
1985年の大晦日に、バリトン歌手立川清登が急死した。
当時、私は長崎にいて葬儀に駆けつけることもできなかったが、テレビのワイドショーでその様子が報じられて、去ってゆく霊柩車に向かって思わず頭を下げたことを思い出す。
東京にいた頃、子どものための音楽番組「うたって・ゴー」の制作に参加していた。そこに立川さんがレギュラーで出演していた。私は新米ディレクターで演出も下手くそだった。つい無理なお願いをすることも一再ではない。が、立川さんは一度も嫌な顔をしたり照れたりしなかった。子どものために本物の歌を歌ってあげたい、それが立川さんの願いだった。
だが、歌に関して、音に言葉に頑固だった。例えば、立川さんの同郷の作曲家滝廉太郎の「荒城の月」にはこだわった。教科書に書かれてある楽譜と違う歌い方になるのだ。
♪春高楼の花の宴・・・ 宴の、「エンーm」は、滝が書いた通りに歌わなくてはと半音の入ったメロディをけっして譲らなかった。美しい日本語の発音ということをさかんに語っていた。
立川さんはそそっかしい人でいつも小さな失敗をしていた。歌詞を覚えるのが苦手だった。毎週新しい歌を歌ってもらうたびテレビの本番ではカンニングペーパーを用意した。それも小さな字では間に合わずだんだん大きくなり、ついには1畳ほどにもなった。ADは操作にふうふう言っていた。
この頃、音楽番組といっても生番組ではなくビデオ収録なので、あらかじめ録音して本番ではそれに口を合わせるのだ。その音樂録音のとき、オーケストラの伴奏を先にとって後からボーカルを重ねるのだが、その伴奏のことを空オケと呼んだ。便利なものがあるものだと、80年代初頭の私は考えていた。それから3年も経たないうちに、酒場のカウンターにカラオケ装置が出現し、あっと言う間に世界へ広がってゆく。
明るく朗らかだった立川さんだが、難しい顔をして思いふけっている姿があったことを今思い出される。晩年の立川さんはそういえば何かに苦しんでいた様子があった。そういうことを私は記憶から排除していたと、今になって思うのだ。
どんな苦しみだったのだろうか。人には見せない、もう一つの顔・・・。でも、歌声は本当に明るかった。季節々の歌を歌ってもらうのは、子どものためでなく私自身の慰めにもなった。
まもなく春が来る。ちょうどこの頃の歌は「花の街」が定番であった。
七色(なないろ)の谷を越えて
流れて行く 風のリボン
輪になって 輪になって
かけていったよ
春よ春よと かけていったよ
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角(注)で
輪になって 輪になって
春の夕暮(ゆうぐ)れ
ひとりさびしく ないていたよ
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