無常
ずっと同じなんてない、というのが無常ということなのかな。鴨長明という人はずっとそのことを考えていたという。彼の時代、寿命は六十だった。人生六十。三十までは老いの坂を上る。三十以後は老いの坂を下る。下りつく果てが六十だそうだ。私には後2年。(そういえば、後3年の役という歴史事件があったな)
永井荷風の『断腸亭日乗』の中に流れるのも無常感だと、佐竹昭広は書いている。こんな一文があるそうだ。《物一たび去れば遂にかへって来ない。短夜の夢ばかりではない》
ちょっといいな。荷風の小説はそれほど面白いとは思わないがエッセーは好きだ。日和下駄など江戸趣味のようなふらふら歩きは、今の時代でも十分通用する。安岡章太郎や川本三郎といった私の好きな作家たちが惹かれるのも分る気がする。
東京は、江戸以後、維新、震災、復興、空襲と受難してきた。その後に安っぽい町並みが生まれてゆく。その戦後空間を歩きながら荷風は遠く江戸の家並を思っていたのか。
私のような70年代以降地方から出てきた者にとって、東京は新宿、渋谷そして世田谷だった。いわゆる山の手中心で下町にはとんと縁がなかった。荷風を読み、小林清親の浮世絵を見て想像するしかない。
話がそれた。帝都の変遷を見てきた荷風にとって、世の中は移っていくもので止まるものはないという無常感をもつのは当然だろう。昭和21年にこんなことを書いているのが気になった。
《ひとたび家を失ってより、さすらひ行く先々の風景は、胸裏に深く思い出の種を蒔かずにはゐなかった。その地を去るとき、いつも私は「きぬぎぬの別れ」に似た悲しみを覚えた。(略) 然しわが東京、わが生まれた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在るものを思慕する情をいふのである。再び見る可からざるものを見やうとする心は、これを名付けてそも何と言ふべき乎》
いいなあ。町を去るのがきぬぎぬの別れだなんて。ちょっと、このおっさんが好きになってきたぞ。
閑話休題。荷風は移り変わってゆくものに執着しないで生きた。と思われたが、孤独死した後数億円の貯金が見つかるなんてことはどう考えればいいのかな。
でも、無常というのは肝に命じたほうがいいかも。なんか論旨がぐちゃぐちゃしてきた。無常と無情を重ねたことを書こうと思ったが、とりとめなく話が転がってしまった。そうだ、この文章の題は一所不住。同じ所にとどまらず転がってゆく「ローリングストーン」で、どうだ。
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