安江良介、生と死②
安江は金沢大学の出身で、私の大学の先輩である。旧姓四高でかつては中野重治、石堂清倫、井上靖といったそうそうたる人物がいたが、新制大学になってからは中央で活躍する人も減った。ましてやジャーナリズムの世界ではほとんどいない。その中にあって安江は数少ない先輩だった。
安江との出会いは大江健三郎さんを通してだ。「シリーズ・授業」という番組で知己を得た私は、大江さんに広島に関する新しい特集番組制作を申し出た。
『ヒロシマノート』――1962,3年に開かれた原水爆禁止大会の模様を取材したルポルタージュの名作。広島の出来事を現代の課題としてとらえ、その後広島のことを考えるうえでの“バイブル”となった。ノーベル賞作家大江健三郎の代表作の一つだ。この本の編集者が安江良介だった。
大江さんと安江は同年生まれだ。安江が岩波に入社した1961年、大江さんは芥川賞を受賞華々しくデビューした。安江は平和運動を取材していた。
1962年東京で開かれた原水禁大会を見て、翌年の広島大会は相当厳しい状況になるという推測を安江はもった。中ソ対立による原水禁の分裂を予期したのだ。おおかたの予想は「聖地広島」で行えば分裂は避けられるだろうと考えられていた。
安江は――
《私は逆に、「聖地広島」でこそ分裂せざるをえないだろうと思っていました。人類にとってのヒロシマ・ナガサキという意味、広島のきず、被爆者、そしてそれにつらなる人々、そういう人たちの目の前で、政治的な運動が分裂していくはずだと、私は思ったのです。そして、こういう重層的な問題をグローバルに捉えられるのは大江さんしかないと思いました。》
事態は安江の予想したとおりになってゆく。その模様を大江さんが書き安江がサポートした。
一方、二人とも個人的な苦悩をかかえていた。その年の5月に安江は長女を得たが3日目に突然死亡した。6月に大江さんの長男光が誕生したが脳に障碍をもっていた。
大江さんはその苦悩から逃れるようにして広島へ行ったことは前にも書いた。この出来事は大江さんの人生とジャストミートする。
私が大江さんにお願いした特番とは、ヒロシマの世界的課題だった。世界の核状況をヒロシマという視点で見つめる特集である。大江さんは安江君の意見も聞いてみたらどうだろうと、私にすすめた。そこで私は岩波書店を訪ねた。それが安江と初めて出会いとなる。
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