
アウシュビッツからの報告
極寒のポーランドから帰ってきた学生たちから報告が届いた。5人でアウシュビッツ、ビルケナウの収容所を見学した。私の授業で使ったビデオカメラを持って,そのうちの一人がずっと撮影して歩いた。
〈私はずっとずっとカメラを回していましたが、目を背けたくなる場面が何度もありました。「もう見たくない。」「でも、見なくてはならない。」
もうわたしには見ていられないから、代わりにしっかり記録しておいて欲しい、と
カメラにすがるような思いにすらなりました。〉
見学後、そのカメラウーマンは他のメンバーにカメラを向けコメントを求めた。すると「言えることなど何もない。」と返ってきた。カメラウーマンは「それでも何か言うべきなんじゃないか。」と迫る。
以下のような言葉になったと、カメラウーマンは報告をする。
<私は忘れる。今、人が死んでいるという現実を。私はそれでも笑う。考え得る限りの悲惨が「見えない」というだけの理由で。
私は忘れる。 自分の生が他人の犠牲の上に成り立っている、ということを。自分の肉体が他人に生かされている、ということを。見たくないものから目をそらして生きている、という事実を。生きていることの罪深きを。
私は忘れる。 救いたまえ、この嘆きを救いたまえ。
だから、その姿をとどめておいてくれたことに感謝する。アウシュビッツ。
己の醜きを映す鏡がこの世にあることに。人間の醜きを忘れさせない鏡がこの世にある ことに。
私は感謝する。>
この報告をどう読めばいいか、もう少し考えてみる。だが、若者の柔らかい心にしっかりアウシュビッツが刻印された。過ぎ去らざる過去が彼らのうちに生まれた。教えるなんておこがましいことは言えないが、私が一生懸命話したことを若い人たちが耳を傾けてくれたことに喜びを感じた。
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