悲しからずや道を説く君
京都を歩いていると、寺院の門前に掲示板があってそこに墨痕鮮やかに人生訓が書かれてあるのをよく見かける。
詩人天野忠がそれを見ながら考えたことを、『老人の菓子』の中でちらと書いている。
その日見たのは、詩経の文句だった。
「園に桃あり其の実を之をくらふ心に憂いあれば歌ひまた歌う」
これを書いた住職はどんな顔をしているのか見てみたいものだと、皮肉屋の天野は言う。「よう、言うわ」という心境なのだろう。
京都には坊さんが多い。ナマグサイ人も少なくないと聞く。お茶屋でよく遊ぶ人はたいていお寺関係とも聞く。ろくに修行もしないで、観光に駐車場経営に忙しくする御仁が多いと聞く。そんな人が往来に向って、人の道を説く…。
どきっとした。このブログも掲示板のようなものだ。そこで気のきいたことを書いたとして見知らぬ人はともかく私の正体を知っている何人かは呆れることだろう。ふだんの行いを棚に上げて「よう、言うわ」と驚くはず。
だが、開き直って考えてもみる。私の知っている何人かの作家は言うとやるとは大違いという人物ばかり。それだけじゃない。テレビの番組でヒューマンな作品を作っていながら、実際には弱いものいじめするのも見かける。
と言うことは、「表現する」なんてことは相当面の皮があつくないと出来ないのかもしれない。
与謝野晶子ではないが、「悲しからずや、道を説く君」だ。
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