女と戦争④
清水鶴子さんは幼子を抱えて、戦後一人奮闘した。だが、世間は彼女のことを表面的には同情してくれたが、何かがあると二言目に戦争未亡人だからなあという嘲りと学歴の足らないものという不当な侮りを受ける。女学校を出たあと文検に合格していて大卒と同等の資格をもっているはずというプライドをもっている鶴子さんにとって現実は厳しく、その仕打ちは耐えがたいものであった。鶴子さんは心中に大きな怒りの炎を燃やしていた。それが激烈な言葉となって、時々迸った。
鶴子さんは戦前の人らしく、どこか封建的な部分を残していた。戦後の苦難に対しても過剰に不条理を感じていた。こんな人生のはずじゃなかったのに、というルサンチマンがあった。
番組のもう一人の主人公吉岡しげ美さんは鶴子さんの全短歌を読み通してとまどいを感じた。
「あれほど美しい祈りに満ちた戦前の歌に対して、戦後の作品は鶴子さんの女の嫌な部分が目に付いてしかたがない。なぜなのだろう。」
この疑問を解くために、吉岡さんは鶴子さんと縁の地を歩くことになる。夫の故郷の越後高田、新婚時代を送った同潤会アパート、疎開の今諏訪村…。そして、その旅で夫の蔵書印がある書物に出会ったとき、鶴子さんは人目をはばからず泣いた。その姿を見た吉岡さんは、夫の戦死以来鶴子さんは心に鍵をかけて生きてきたことを知る。
鶴子さんは満州で長男恒を失う。時に1歳5ヶ月。自家中毒症だが戦時ということがなければ起きない悲劇だった。吉岡さんも同年の子供をもっている。母としての哀しみが痛切なほど伝わった。「君死にたもうことなかれ」や「私がいちばんきれいだったとき」など名作に音楽をつけて歌ってきた吉岡さんが、鶴子さんの短歌に曲をつけた。そして、池袋の会場で歌った。鶴子さんは客席で吉岡さんの歌声にじっと耳を傾けていた。
一すじの煙となりし吾児の骨 夫と拾いぬ北満の丘
次の年の夏も、その次の年の夏も、8月が来ると、鶴子さんの投書が朝日新聞の声欄に戦争未亡人の声として載った。戦争の無残さを怒り二度と起こしてはならないと訴えていた。鶴子さんは今年も元気だと新聞を広げては思ったが、その数年後この世を去り、念願の弘さんと坊やの恒ちゃんが待つ国へと、鶴子さんは旅立った。
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歌う吉岡しげ美さん