あけがたにくる人よ
去年今年(こぞことし)という季語は、厳密に言うと元旦の今日しか使えないはずだ。
虚子の有名な句。
去年今年貫く棒のごときもの
正月だからといって何かがあらたまるわけでもなく昨日の続きの今日なのだが、それでも新年と呼んであらたまってみたい気もする。
昨日は空が晴れて青空だったが、本日はどよんと曇っている。まあ、こんな感じから始まる年というのも悪くない。景気が悪いのは困るが良くなって有頂天になる世間も嫌だ。だからハシャギすぎないくらいの今日のような日和がいい塩梅ではないか。
大磯もみじ山の山中は静かなものだ。時折、羽をついている子らの声がするだけ。庭に出て裏山を眺めていると遠くから初詣の客がつく鐘の音が響いてくる。
年の初めに手にとった本が永瀬清子の詩集だ。どこの古本屋で購入したか忘れたが、この詩集を求めた理由は覚えている。「あけがたにくる人よ」を読みたかったのだ。ここでは全詩を引用しない。最後の連だけ記す。
―― もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ
作者81歳の詩だ。若い日のことを偲び、実らなかった愛を思う詩だ。老女の肉体のうちに、みずみずしい痛み(変な表現だがこれしか思いつかない)を保持している。鳩のててっぽっぽうの声が聞こえてくる彼方から静かに現れる…。いまさら現れたとて一生は過ぎてしまったのに。
今晩見る夢が初夢だ。もしあけがたにくる人の夢をみたとしたら、今年はどういう年と考えていいのだろうか。老いということが兆したのか、若さというものを保持しているのか。
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初春の空(2006年1月1日)