雪の金沢
雪の金沢を思い出す。昭和42年の冬だった。よく積もったので女所帯だった茶の湯の先生の大屋根の雪下ろしを手伝ったことがある。張り切りすぎて2階の大きな窓のガラスを割ってしまった。先生も少し落胆した。それでも、「いいがね、いいがね。何とかなるわいね」と慰めてくれた。
そのとき、先生から家に入ったある職人の話を聞いた。戦後まもない頃のこと。お茶室の建具を直してもらおうと2,3日入ってもらった。先生は居職だから日がないっしょにいることになる。ずっと職人は歌っている。よく聞くと、職人は同じ歌を何度も歌っているのだ。
♪夢も濡れましょ 汐風夜風
船頭可愛や エエー
船頭可愛や 波まくら
先生は彼に訊ねた。「あんたあ、そんなに奥さんのことが恋しかったがか」無愛想でぱっとしないその職人が、まことにそうだと言わんばかりにこう言った。
「そうがや。わしぃ、兵隊で中国へ行ったがや。戦地で歩哨にたつときも行軍するときも、いっつもかあちゃんのことを思うとった。ほいでこの歌バッカシ歌とった。」
♪千里離りょうと 思いはひとつ
同じ夜空の エエー
同じ夜空の 月を見る
♪一人なりゃこそ 枕も濡れる
せめて見せたや エエー
せめて見せたや 我が夢を
先生は心の中でこう思ったそうだ。(この人は学校もろくろく出てないかもしれないが、ちゃんと大事なことを持って生きている人だ。「愛している」なんて言葉なんかは使わないが、どれほど恋女房を思っていたことか)
その職人はいい仕事もしたが、後片付けも見事だったよと、私に話してくれた。
私は学生時代先生の家に入り浸り、お茶を習うより酒ばかり飲んで先生の話しを聞くのが好きだった。当時は珍しいシングルマザーだった先生は、けっして他人から後ろ指さされまいと気をはって生きていた。私は先生の手作りを肴にうまい酒を呑んだ。
私が大阪で仕事に就いたとき、お祝いに次女といっしょに来てくれた。私は二人を有馬温泉に招いた。安月給だったから高級旅館ではなかったが、一晩温泉宿に泊まり時間も忘れてあんなこともあったこんなこともあったと、思い出を語りあった。
先生は私が広島に勤務する頃、ガンで倒れた。その数年前から体が弱っていたので気にはなったが多忙で見舞うことができなかった。いよいよ命数がわずかと長女から連絡がはいり、私は広島から金沢へ飛んだ。掘割そばの個人病院に先生は入院していた。やつれた姿を見られるのは恥ずかしいと、まだそんなことを言っていた。私は蛮勇を奮って、病室で四高寮歌を大声で歌った。
♪北の都に秋たけて われら二十歳(はたち)の夢数う
男女(おのこおみな)の棲む国に 二、八に帰る術もなし
先生は笑っていた。
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