太田川のほとりで
ひさしぶりに広島へ帰った。1992年から95年までこの町にすんでいたことがある。川が3筋流れる美しい町だ。原爆ドームを見ながら早速資料館へ行く。この町に来ればかならず足をはこぶ。
――いつも、ここで思うのは、原爆によって何と多くの若者が命を落としたかということ。女学生、中学生の遺品が心をうつ。三位一体の少年、少女のブラウス、名札、弁当箱・・・。
最後に、対話ノートのコーナーへ寄った。入場者の感想が書かれてある。こんな記述を読んだ。
「戦争の惨禍をこういう形で展示するのは不快だ。主権国家間の戦争ならば仕方がない。過ちは繰り返しませんからというのは、アメリカが言うべきこと」長野県の男性の名前が電話番号入りで書いてあった。
10年前にはこういう文章はなかった。時代は変わったなと思う。はたして、変わった時代は二度と核戦争を起こさせないという方向に向かっているだろうか・・・。どうも反対に思えてならない。
寒々とした思いで資料館を出て中国新聞社に行った。社長のIさんにあいさつするためだ。私がいたころは、Iさんはバリバリの論説委員だった。原爆報道は無論政治、社会、に鋭い論陣をはっていた。私の憧れのジャーナリストだ。
Iさんはすっかり社長になっていた。穏やかで礼儀正しい経営者の顔だった。
広島で暴力団抗争が激しかった昭和30年代、Iさんは先頭にたって暴力団追放のキャンペーンをはたし勇名をはせた。この人のどこにそんな闘志があるのか不思議なほど穏やかな顔だった。
だが話しはじめると、その闘志はけっして消えてはいないとすぐ分かった。来年には70歳をむかえるIさんだが、けっして老いてはいなかった。私はうれしくなった。社会正義の灯をかかげて燃やしつづける人が、ここにいる。安堵のような確信を抱いた。
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