K子先生
田園都市線、青葉台まで行った。10年前に行ったことがある町だが、すっかり都市化していて驚いた。
だが町への思いなどすっかり忘れるほど帰路は呆然としてしまった。小学校6年生のときの担任K子先生のお見舞いに行ったのだ。3年前、故郷の港町で一人暮らしをしていて、帰省したときにはときどき顔を見せに行ったのだが、かくしゃくとして相変わらずチャキチャキしていて昔のままだと安心していた。が、その後要介護3ほどになったということで横浜に住む親族に引き取られたと聞いていた。そこが青葉台の施設だった。
底冷えのする坂の町を汗をかきながら早足で向かった。町は人通りが少なく閑散としていて、見知らぬ町に連れて来られた先生の心中を思うと少しせつなかった。
施設はきれいで設備も整っていた。ほどよい暖房の温風が流れていた。警備は厳重で二重にチェックを受けながら、一階の面接コーナーで30分ほど待機した。受付の人の話によれば嚥下することが難しくなって食事をとるのも時間がかかるのだという。エレベーターの前には大半が車椅子の要介護の老人が羊のように黙って介助者の順番を待っていた。みなうつろな眼差し。その背後に入居者たちが書いたと思われる習字の作品が貼られてあって、立派な書体の毛筆の作品が並んでいた。どれもお手本のような美しい字ばかり、知性を失っているとは思えない。中にK子先生の作品もあった。「暮れの秋」という文言に言葉を失う。
先生は全教科を教えたが、中でも書道は得意としていたから、これを書くとき先生は昔に戻っていたのかなと少しだけ安堵した。
が、エレベーターから出て来た先生はまったく面変わりしていた。男勝りで活発だった先生はまったくなく、無表情で私の顔を見てもなんの反応もない。「お久しぶりです」と声をかけても返答もない。もはや私を認知できない領域に先生は行ってしまわれた。ヨシアキ君といつも励ましていただいた先生はそこにはいない。
20年前、大江さんがノーベル賞でストックホルムに行ったとき、同行した私は受賞式の前夜それもかなり深夜にホテルのバーで酒を飲んだときのことだ。一人私がカウンターで呑みながら、絵はがきを書いていた。そこへ大江さんがやってきて、何をしてるのと聞かれたので、故郷の恩師にノーベル賞のことを報告していると答えると、大江さんはちょっとボクにも貸してといって、私の文面の横に大江さんの挨拶の言葉を添えてくれた。驚く私に、大江さんは愉快そうに笑っていた。
――帰国すると、K子先生からストックホルムのはがきという文章が届いていた。受賞も嬉しいが、ヨシアキ君が世界に出て行って活動していることが担任として誇らしいとあった。
冬の日は早い。日がかげったので先生においとまを告げた。無反応の先生はただ私の目をじっと見ていた。(先生、長い間本当にありがとうございました)。一礼して振り返ることなく部屋を出た。