人道の港
久しぶりに番組作りに参加して、やっと先々週の日曜日に放送された。「幻のオリンピックとアスリート」という主題で、戦前のベルリンオリンピックに出場した選手らの運命と、スポーツの精神を絶やさないようにしたいと願う関係者の思いを描くドキュメンタリー。およそ2年ぶりに長い尺の作品に関わったのだが、久しぶりに作品を作る緊張と激務にややばてた。だが制作現場の進歩は目覚ましく、改めて後生畏るべしと感じ入った。
気分一新で、しばらく故郷に帰っていた。京大のS先生たちと一緒だ。故郷敦賀は2年後に北陸新幹線の開業を前に「観光」に力を入れて居て、その応援と現地視察を兼ねて2泊3日で現地入りした。
敦賀は古来“裏”日本の玄関であった。戦前は東京―敦賀―巴里という国際列車も走っていた。松岡洋右も国際連盟出席は敦賀から船出している。敦賀-ウラジオストック-モスクワーパリというルートだ。このルートを逆走した人々がいる。ナチスドイツに追われたユダヤ難民たちだ。1940年、こどもらを含むリトアニアのユダヤ人数百人がヨーロッパから日本を経由してアメリカに逃れたのだ。このときに「命のビザ」を発行したのが外交官杉原千畝で、そのビザを持った人々は決死で逃避行した。そして日本海を渡って、やっと安堵してたどり着いた地が敦賀の港だった。恐怖と緊張の中を脱してきた人たちを、暖かく迎えた町が敦賀。銭湯に招いたり食事を振る舞ったりと、彼らのこわばりを優しく溶かした。そのことを彼らはアメリカに去った後も忘れていない。戦争が終わってしばらくして、敦賀を訪れるユダヤ人の姿があった。ツルガという名前はユダヤ人の中では大きな存在だったのだ。
この出来事を記念する博物館(ムゼウム)が現在金ケ崎緑地にあるが、いささか物足りない。新しい建物が今建設されつつある。そこでの展示の仕方や盛り込むソフトについて提言しようと、今回われら一行が出向いたのだ。
一行とはS先生と旅行業のNさん、そして京大3年生のG君と私の4人のメンバー。Nさんは現在京大の学外講師として「観光学」を教えていて、S先生が主任教授。そしてG君は学部生だが観光を卒論のテーマにしようとしている。
京都で観光を推進しているNさんから見て、敦賀の観光のポテンシャルはけっして小さくないが、宿泊施設や第2次交通の不足などから、改善の余地がまだまだある。だが当面の新幹線営業のチャンスを生かすべきだ。そこで持ち出したのが「修学旅行の開発」。これを敦賀市に提言しようとしたのだ。
有り難いことに市長が関心を示して頂き、月曜日の朝に市幹部らとミーティングをもつことが出来た。1時間半の会見、討議は実り多いものがあった。
そして一昨日東京へ戻ったが、どっと疲れが出て、昨日は一日中床から出ずじまい。今回の企ての総括と新しい構想の提言をなんとか9月半ばまでにまとめたいと考える。
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