東京の青い空
昭和16年の夏は例年に比べて寒かった。水温はなかなか27度を超えなかった。スポーツは競技会の中止が発令され活気をなくし、選手は失意落胆からなかなか恢復できなかった。
水泳界のリーダーたちは誰しもこの停滞に危機感をもった。水連の会長の田畑もそうだが、実際のコーチをしていた斎藤や松澤は競技技術の停滞空白を心配していた。ロス、ベルリンと男子競泳は最多のメダルを獲得して世界制覇を遂げてきたにもかかわらず、そこからわずか数年で日本水泳は最悪の事態と遭遇することになった。
水泳界だけでなく、当時の近代スポーツ全体に沈鬱なムードが流れていた。大日本体育協会の幹部であった、松澤一鶴は選手の層に断層が出来ることを懼れ、その空白を埋める必要があると考えたのも、仲間の斎藤や田畑らからの力づよいサポートがあったからに違いない。斎藤の勤務する東日新聞の後援を得て、水泳連盟関東支部は「記録会」を実施することにした。昭和16年8月、真珠湾攻撃の4ヶ月前、日中戦争は泥沼化しつつあった時期。周到な準備と十全な根回しを駆使して会は実行された。誰も予想もしない「記録会」という椿事が前年出来たばかりの森のプールで開かれたのだ。この記録会は合計4回行われたと伝わる。
その一回目の記録会は王子の名主の滝公園の山頂にある25㍍のプールでおこなわれた。昭和15年に東京で開かれる予定であった幻のオリンピックの出場候補の選手ら18人が登場した。
ベルリンで活躍したスタア選手から新進の女学生まで関東エリアの有望選手たち、みな次代を背負う逸材ばかりだった。
この夏2019年、そのプールの跡地を訪れた。8月の暑い日差しの昼下がり。プールは廃棄され空地になったスペースには夏草が茂っていた。6つのコースのスタート台だけが往事を偲ぶ縁(よすが)として地上に顔出していた。オリンピアンの児島(背泳)吉田(背泳)新井、進境著しい若手の白山、籏野ら精鋭がこのスタート台に立ったのだ。
記録会はレースではなく自己の記録の更新を目指すもの。1ゲームに登場するのは一人か二人の選手だけ。両脇のコースは無人のがらんとした水槽で、選手等は懸命に泳いだ。まもなくやってくる太平洋戦争の暴虐が彼らの運命をのみ込むことを知らず、選手らは力の限り泳いだ。この記録会に出たことがある、今も存命の白山は当時のことをこう述懐している。「ずーっと泳いでいたかった、いつまでも。」