「戦争未亡人」その後
このブログも書き始めて15年経過した。初期に「戦争未亡人」という題で、私が初めて手がけたラジオドキュメンタリーの主人公のことを書いたことがある。清水鶴子さんという“老女”の身の上を追った記録である。34歳で、ディレクター人生のとば口で出会ったこの主題に私は熱くなった。戦争の悲惨ということを痛いほど感じていた。後に、私が広島長崎の被爆者への思いを強くする契機ともなったドキュメンタリーだ。
1週間ほど前に、この鶴子さんの孫にあたる女性からコメントを頂いた。それによれば、鶴子さんの一人娘ユリコさんの娘さんで名前は記されていない。が、鶴子さんとそっくりで鶴子さんによく可愛がられたとある。鶴子さんは美人だったから、きっと孫も美女に違いない。何を思って、コメントをくれたのだろう。何か、鶴子さんのことを思い出す出来事でもあったのか。
このラジオ番組を制作しているとき鶴子さんは老女だと思っていたが、当時73歳。今の
私と2つしか違わないことを知って愕然となる。
取材しながら、なぜ、40年も前に死別した夫や息子のことをこれほどビビッドに語り嘆く
ことができるのか、不思議でならなかった。
通常、40年の歳月は「日にちぐすり」が効いて、すべて茫洋の彼方になるはず。だが鶴子
さんは愛児がまるで昨日亡くなったかのごとき悲哀を身に帯びていた。同時に、無謀な戦い
を強いた為政者権力者への批判は激烈であった。毎夏、全国紙の投書欄に鶴子さんの反戦記
が掲載された。鶴子さんの怒りと悲しみはけっして収まることがなかった。
今、この71歳の境遇に立ってみて鶴子さんの心境が少し分かるような気がする。
記憶に今昔の長短はないのだ。どれほど昔であろうと、かけがえのない思い出が甦るとき、その人の胸奥で
はまるで昨日のごとく仕種も匂いも表情も在るのだ。そればかりか、その時の自分の感情も
しっかりよみがえる 。私とて、最近、高校
生だった頃の悩みの素に明け方苛まれることがある。それはとても生々しいのだ。あのとき
俺はなぜあんなことを言ったのだろう。きっと嘘だとばれるに決まっているのに。でも、あ
のときはあれしか術がなかった。と自分に言い訳しながら、往事を偲び、かつ再体験そして
後悔を繰り返している。
鶴子さんは若くして寡婦となったが、ユリコさんもけっして長くはない人生を送ったと
風の噂で聞いたことがある。鶴子さん似の孫の方は、おばあさん、おかあさんの分だけいっ
ぱい仕合わせになってほしいと心から願う。
昨日、大雨の中、近くの自然教育園に行った。降り出した雨で園内には人影はなく、ケヤ
キやすだじいやえのきの巨木に降り注ぐ雨音がひときわ大きく響いた。傘を持たずに入園
したせいで、根方で幾度も雨宿りをした。灰色の雨雲の下で大揺れする葉群れをみながら、
「風の又三郎」を思い出した。
どっどど どどうど どどうど どどう、
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいくゎりんもふきとばせ
死者が懐かしい。自然教育園の中央にあるひょうたん池に蝶々が飛んでいた。最初は1匹、
やがて追うように2匹、3匹。あれー、何だろう。蝶々のギリシャ語はプシケ―で魂とい
う意味も併せ持つと聞いたことがある。では眼前の3匹の蝶々はなんだろう。
25年前死んだ父、10年前に死んだ母、そして3年前早世した弟。なんだ、みんな一緒にい
るのか。
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