蒼ざめた花の色
人生というものは一筋縄ではいかない。これも人生あれも人生、人生なんてこんなものさと悟ったようなことを言っても、いざ死という大波が来るとそんな人生訓なんて「屁のつっぱり」にもならない。
自分の70年の短い時間をとっても、いろいろなことがあった。まったく予想すらしなかった一大事が発生し、死という言葉が一瞬過ぎったというようなことは少なくない。10指はあったであろう。こんな私の平凡な人生にしてそうだから、表舞台で活動をしている選ばれた人や重要な役職にいる人などは天国と地獄の間で木の葉のように翻弄されているという体験をたえず抱えこんでいるのだろう。
昨日、戦前陸上競技で活躍した選手の遺族の方と会って、その選手の人生を取材した。その人は昭和6年から12年にかけて箱根駅伝で活躍した名選手だ。ちょうどベルリンオリンピックの頃で、この人も1500㍍の選手として国内予選に出場したが、惜しくも2位となり、オリンピックに出ていく機会はなかったが、箱根駅伝では2度もアンカーを務めている。
大学を卒業後、満州の大連汽船に入社。羽振りのいい“国策会社”に勤めるため、彼は玄界灘を渡っていった。彼の住んだ大連は、中国大陸で事変が起きているとはいえまだ激しい戦火もこれといってなく、比較的平穏だった。そして結婚をして一児を得る。その息子さんと昨日会ったのだ。77歳となるその人は父とわずか1年ほどしかともに暮らした経験を持たない。昭和19年、現地で召集となった父とは別れ別れになる。だから父の記憶をほとんど持たない。
母から聞かされたのは、父は身長が175㌢もあって、かもしかのような美しい脚を持っていたということ。神宮の競技場でおおぜいの声援を受けて、華麗に走っていたということ。
父が出征したので、母子は日本へ一時里帰りする。そして半月後に満州に帰るのだが、汽船に乗船する段階で、子は小児ぜんそくの激しい発作に襲われ、大陸に戻ることを中止した。
この中止は結果幸運となる。門司を出港した大陸とのその連絡船は対馬沖でアメリカの潜水艦によって爆沈させられた。昭和20年に入って日本近海はもはや危険な海となっていた。
一方、父はソ連と満州の国境ハイラルの守備隊に転属となって着任。そして8月9日、突如ソ連軍は国境を越えて満州に侵攻してきた。気がつくと守備隊は全方位ソ連軍によって包囲された。もはや全滅しかない。この窮境を師団本部に伝えなくてはならないと部隊長は父に伝令を命ずる。8月14日のことである。深夜、父は二人の兵隊を連れて遙か200㌔離れた興安嶺の本部を目指して出て行った。父の消息はそこまでである。その後の父と兵隊の行方は分からない。戦死の公報もなければ遺骨もない。昭和37年まで「未復員」という状態が続いたと息子は語る。
そして、翌8月15日、玉音放送が流れ、部隊は敗戦を知る。ソ連軍に降伏して武装が解除された。この部隊はシベリアに送られ、2年余りの抑留となった。
2019年3月29日。東京は花の季節をむかえた。おおぜいの人が花を求めて散策する。悪いことではないが、桜というのは瑞兆を指すだろうか。なんとなく死の匂いがしてならない。花びらは華やかなピンクではなく、寒さと悲しみに蒼ざめたほのかな桃色で、言祝ぐと言うより鎮魂を暗示しているとしか言いようがない。夕暮れの花冷えの大気の中で、満開の桜と向き合うとき、根方に死者がそっと立っている。そんな気がする。
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