瀬戸内の海辺で
週末、尼崎、御影、広島、江田島へ取材に行った。久しぶりのロケにアテンドした。
ある戦没オリンピアンの人生を追う取材だった。その人は74年前の3月17日に激戦地硫黄島で戦死した水泳の銀メダリスト。その遺族親族の証言を得ながら、彼の、鮮やかに輝きそして一瞬にして消えた流星のような短い人生を浮き彫りにした。詳細は今週日曜日の朝7時半から8時までの中のどこかの時間帯で放送されるので、それを見てほしい。
久しぶりに瀬戸内の海を見た。江田島市大柿地区、昔は能美島と言われた地がその選手の故郷だ。そこまで行くのは昔は連絡船を使ったが、今では広島から陸路で呉まで出て早瀬大橋を渡って行くコース。日曜の朝だったから渋滞することもなく広島から1時間半ほどで現地入り出来た。
途中、呉の街を通過するとき、25年前の出来事を思い出した。その頃、広島局に私は勤務していた。単身で赴任したが、2年目に息子が中学、娘が小学校へ入学する時期を見計らって呼び寄せた。ちょうど今時分だ。桜の花が開き始めたばかりだった。東京の学校から突然親の転勤で広島の庚午中学へ連れて来られた息子は大変だったはずだ。働き盛りだった私はそのことに気づいていなかった。
広島の中学では制服があった。青いブレザーだったと記憶する。ネクタイも締めていたのではなかったか。妹が「サラリーマンみたい」と冷やかしていた。小柄だったのでまだ小学生のようだった。大丈夫かなあ、地元の子供らとうまくやっていけるかなあと少し心配にはなった。
我慢強い息子は愚痴も何も言わず、広島弁の飛び交うクラスの最初の授業にも積極的に飛び込んでいった。健気に立ち向かう息子の姿に、親として有り難いと感じるものがあった。
身長はそれほどないのにクラブ活動はバスケットボール部を選んだ。シカゴブルズのマイケル・ジョーダンが全盛期で、息子は憧れていたのだ。だが庚午中学のバスケット部は県内でも有数の強豪校だった。部員も3桁に近いほどいたと思う。1年生でもかなりうまい選手がいると息子は晩ご飯のときに話していた。レギュラーなどは至難で、補欠のその他大勢組かと思ったが口には出してはいけないだろうと、自制した。普段ならきっと軽口をたたいて冷やかしたのだが、そのときはしてはいない。
結局、その学校には1年しかいず、息子は2年生になったとき、大磯の中学校へ転校することになる。短い庚午中学生活だったが、バスケットの対外試合で呉へ行ったことがあると家人から聞いた。親と離れて旅行する機会などなかったから、そういう行動もできるようになったかと少し嬉しかった。でも小柄なブレザーの少年が呉の港町に降り立ったときどんな気持ちでいたのだろう。ロケ車に揺られながら、遠い日のことに思いを馳せた。
大磯へ移って2年も経たないうちに息子は急激に身長が伸びた。バスケットボールをやっていたおかげかな。今では1歳の男の子の父だ。
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