ミュージックサイレン
小学校の頃と思うから60年ほど前の思うあったことだ。つい昨日のような記憶だったが、実際には半世紀以上の時間が流れている。自分では自分の幼年時代なんてまだ過去にもならない過去だとなめていたが、こうやって実際に年数を調べるととんでもない大過去になっていることに気づいてしまう。
当時、朝夕に時刻を知らせるために大きな音量の音楽がスピーカーを通して流れていた。サイレンの一種で音楽が流れるのだ。西欧でもそういう教会のチャイムがあるからこのミュージックサイレンも世界共通のものだと思い込んでいた。ところがこれはヤマハが独自に開発したものであるということを今回知った。戦時中戦闘機のプロペラを作っていたヤマハの工場は空襲で木っ端みじんに打ち砕かれた。戦後再開した工場では朝晩の始業終業にこのミュージックサイレンを使った。戦争中の空襲警報を想起させるサイレンはごめんだという気持ちかららしい。円盤のディスクが高速回転して圧縮した空気が振動して音が出る仕組みらしい。これを使えばメロディが出来る。そうやって赤トンボとか夕焼け小焼けのメロディがそれぞれの地方に流れたとウィキペデイアは書かれてある。
それぞれの地方でその地固有の音楽が流れた。ふるさと敦賀では「ボルガの舟歌」が流れた。戦前、敦賀は国際貿易港としてソ連のナホトカ、ウラジオスロックと航路を結んでいた。実際に日本から大陸へ行くのにこの航路を使ったという記録が太平洋戦史を読むと出てくる。いずれにしろ敦賀とソ連(今のロシア)と縁が深いということで昼や夕方には町全体に「ボルガの舟歌」が流れたものだ。特に昼飯時に流れるのは強烈に記憶に残っている。まだ土曜日は授業があって半ドンの時代だ。4時間の午前中の授業が終わると、掃除が終わると下校となる。すっかり時刻は正午を回っている。小学生の育ち盛りにとっては空腹の極みだった。「ああ何か食べたいなあ、腹減ったなあ」と恨みがましい思いをかかえながら下校した。そのときにボルガが流れてくるのだ。♪エイ、コーラ エイ、コーラ。もうひとつエイコーラ
歌詞はない。メロディだけだ。聞いていると次のように聞こえてくる。
「ハラ減った メシ食わせ ハーラ減ったメシ食わせ」
土曜日の昼下がり、みじめな思いに駆られて一目散に家へ帰った。だが帰ったとて満足な食い物などあるはずがない。せいぜいふかしたサツマイモが関の山だった。あの頃なぜあんなにおなかが空いたのだろうか。そういう学齢だったのか。そうじゃなく日本全体がまだ食料が圧倒的に不足していたのだと、今になって発見したりして。好き勝手なことをしてきた団塊の世代と言われるが、結構つらい目に遭っているのだと、子供らに言い張りたい気分で、ミュージックサイレン復活のニュースを読んだ。
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