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同窓会というのは四十代が一番多かった。50,60と超えてきて振り返るとほとんどお誘いがなくなったに気づく。当方が引っ越ししたりして居住が判らなくなったせいかもしれないが、主観としてもそれほど昔が恋しいという思いはこの20年の間なかった。
今まで一番長く住んだのは大磯だ。1994年から2017年までおよそ23年間。最後の5年は大磯と目黒の往復だった。次に長いのは故郷敦賀の18年間だ。生まれてから大学進学するまで親兄弟と狭い小さな官舎で暮らしたこと。金沢4年、大阪4年、東京荻窪4年、武蔵小杉3年、長崎4年、東京成増7年、広島3年、そして大磯が23年だ。
完全退職の昨年からずっと東京山手を歩き回り、日本の近代史のあとをたどることを面白がってきた。一昨日も駿河台の文化学院を探訪して戦前の謀略放送の遺跡を楽しむ途上、山の上ホテルで作家たちの夢の跡を味わうこともあったが、さらにその途上、金華小学校あとも目撃した。夏目漱石が通った学校だ。そのあと水道橋、飯田橋から早稲田へ抜ける長道を歩き通して、漱石の生活圏というのも実感することができたのは思わぬ収穫だった。
などという「歌枕」のような話をするつもりで、これを書いているのではない。東京を歩き回れば回るほどあの小さな町敦賀が懐かしく思えてならなくなった。
日没がだんだん早くなり、本日は午後5時半でとっぷり暮れた。たそがれの広尾の台地に立って、ぽつぽつ明かりの町並みを眺めているうちに言い様のない寂しさがこみ上げた。ふるさと敦賀の少年時代の夕景を思い出したのだ。何もなかったあの頃、至るところにあった田んぼと空き地。秋になれば稲穂がたれていた田んぼ。脇を通ると、どこからか虫の音が聞こえたものだ。銭湯の脇を抜けると、下水に人懐かしい湯垢の匂いがした。駅前まで行くと志那そばの屋台に数人たかっていた。みな影絵の世界だ。
今企画立案のため、1964年の東京オリンピックの舞台裏を探っている。中学生の頃だったと記憶するが、秋期運動会で「五輪音頭」をフィナーレで踊らされたことがあった。当時、国家的行事として全国津々浦々までオリンピックを寿ぐことが行われたのだ。北陸の小さな町も例外ではない。男子なのに、なぜ踊りなんてこんな恥ずかしいことをやらせるのかと憤懣が一杯だったが、今となっては懐かしい。三波春夫の歌がよみがえってくる。こんな思い出が今私のなかでふわふわとよみがえるのだが、語る相手がいない。かつてなら数年に一度の同窓会で、そういう仲間を見つけたものだが、70になるとない。このノスタルジアというのが厄介で、無視しようと決意するのだが、すぐにリベンジされて、往事を偲ぶ出来事に思いがかられてしまう。やっかいだなあ。
おーい、ナカムさん。たまにはネオくんやカナイくんやミツナガさんらを呼んでみんなで集まってみないかい。
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