アンビバレンツな思い
先週、品川図書館から借りた「伴侶の死」(1989年)という文庫本に衝撃を受けている。38年間連れ添った夫の癌による突然の死に、呆然としながら次第にその死を受け入れていく妻の内面を記した記録だ。作者加藤恭子は当時(昭和63年)大学の教師であり、夫は国際的にも著名な発生生物学の研究者加藤淑裕。食道癌と病因が特定してからわずか2週間ほどで急逝するという劇的な幕開けから始まり、死後夫はどういう人物であったかという夫探しの「旅」を軸に、この夫婦の生き方、生き越してきた過程が丹念に書き込まれている。
享年63という伴侶淑裕の早すぎる死。今の私より7つも年少で、早すぎる死を突然むかえた夫の心境は私にも分かるようで分からない。たしかに私自身、47歳で脳出血を発症し、63歳で胃がんの手術を受けるという体験を持ってはいる。危険水域まで進んでいったが、それでも医者から胃を三分の一切除すれば緩解するだろうと説明を受けたので、まだ持つだろうという楽観的な気分をもっていた。自分はまだ深刻な老年期にいるわけじゃないという根拠のない自信がなんとなくあった。いずれにしろ死の影に怯えることもなく病気をやり過ごしたので、この加藤淑裕のケースは自分でもなかなかうまく把握できず、ましてや連れ合いで59歳の「若さ」で苦悩する加藤恭子の悲しみはおそらく半分も理解できていなかった。これが読書する当初の感想。ところがこの書を読み進むと、そのしずかで悲痛な筆致にぐいぐい私は引き込まれていく。
なかでもプログラム死と現役死という本書で提示された概念が頭に染みついて離れない。
刀根重信の説くプログラム死。受精卵から発生していく過程で、すべての細胞が器官形成に参加するわけでなく、なかには途中で死んでいく細胞もあるという。そういう細胞は死が最初からプログラムされているというのだ。例えば哺乳類などでも最初水かきになるものが発生しているのだが、その細胞もある段階では死んで、指が分かれるという。この細胞などはそういう死のプログラムをもって登場し、しかるべき段階で死ぬのだ。プログラム死。
人間の死のなかにもそういう死があるのではないかと、作者加藤恭子は語りかける。慄然とした。あらかじめ私の中にも死がプログラムされているのではなかろうか――。
一方で、早すぎたかもしれないが仕事をしている現役のなかでの死は死者の望むべきことではなかったかという証言もあったと作者は書いている。この説にも私は深く心を奪われた。
昨年69歳で会社を退社した私はその後の“余生”はけっして歓迎すべき時間とは言えない。むしろ無為の恐怖のほうが大きい。一日一日が長く感じる。こういう老いの日々のなかで緩慢な死を受け入れていくことの困難さを思うと前途茫々たるものがあるのも事実だ。現役の中の死も悪くはないのではないか。・・・
この死に対する2つのアンビバレンツな思いが脳裏でぐるぐる回っている。
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