花はどこへ
今年(2018)の春も長けていく。たけるは門構えに東を挿入したような字だがパソコンで転換しても出てこない。だから春が深まっていくを長けるとしておく。金沢大学の前身旧制四高の寮歌に、「北の都に秋たけて」というのがある。入学したての頃に習って、宴会では大声を張り上げたものだ。そのときこの長けるという言葉を覚えた。季節が深まる、成熟するというような意味だ。この言葉は秋より春のほうが相応しいと私は思うのだが、いかがだろう。
先般、松本の旧制松本高校記念館で、各地の寮歌を聞かせるコーナーで久しぶりに「北の都に」を聞いて、たけるという言葉が懐かしくなった。
桜の時期も先週末あたりで終わった。今年も目黒川にはおおぜいの見物客が押し寄せた。とりわけ外国人の姿が目についた。いつも通っているスポーツジムが目黒川の川沿いにあって、朝早くから賑わっていた。2年前から宴会禁止となって、花見にはよい環境が整った。
桜若葉となってからは観光客もめっきり減って、保育園の園児たちの手つなぎ散歩が見られることがうれしい。おそろいの黄色い帽子、ちっちゃな足下、ピーピーさえずる口元、みんな愛らしい。ときどき目が合うとじっと見つめてくる。そのまっすぐなまなざしについ感動してしまう。
松本へ行ったとき甲府盆地の山間で山桜を見た。平地の桜とちがって色が淡く、枝も細く、楚々としていた。万緑の中にぽっとともる山桜、心に沁みる。奥田元宗の桜を思いだした。
恵比寿の駅から渋谷に向かう明治通り、澁谷橋を越えたあたりからしだれ桜の並木が続く。
枝垂れは本桜より花の時期がやや遅い。桜が満開の頃もしだれはまだ花を持たない。そのときもそうだった。私の前に同世代かやや年少のおばさんが4,5人歩いていた。「花が遅いわね」「まだ時期じゃないんでしょ」「花はどこへいった」と言って大笑い。
思わず顔がほころんだ。この話柄は今の若い人に話しても通じないだろうなあ。
昭和40年、フォークブームが始まった。みんなギターを手にした。私はヤマハのフォークギターが欲しかったが、値段が高くただのガットギターにカポタストを嵌めていた。歌いたかったのはピーターポール&マリーの曲「パフ」や「500マイル」。なかでもコード進行が簡単な「花はどこへいった」がお気に入りだった。名手ピート・シガーが作ったこの曲は反戦歌の名作と言われた。ベトナム戦争が世界を覆っていた時代だ。
where have all the flowers gone
花はどこへいった
野に咲く花はどこへいった、少女が摘んだ。少女はどこへいった、男の嫁にいった。男はどこへいった、戦場いった。そして男は戦死して、墓へ入った。その墓は花で飾られた、というような内容の詩だった。歌の真の意味はつかめず、花はどこへいったという表現が好きで、歌っていたと思う。歌いながら、花はどこへいくというのはどういう現象かなと小首をかしげながら歌っていた。
おそらく件のおばさんたちもいつも不思議に思っていたのだろう。だからしだれ桜の「花はどこへいった」という言い方がぴったり状況とはまって、みんなで納得の大笑いになったんじゃないかな。