藤沢小説の味
藤沢作品の映像化について書く以上見ておかなくてはと、今夜の「秘太刀 馬の骨」最終回を見た。やはり、このシリーズは見なくてよかったと思った。初回を見たときから違和を感じていた。ずいぶんモダンというか前衛的な映像つくりだなという印象だった。
近藤等則のラッパが気に入らない。以前、藤沢ドラマでもあったが、あのときはまだしも今回はやりすぎの感否めない。脚本も現代人の感覚の対話である。藤沢は意外な位封建的道徳を重視していた。それは、彼が封建的というのではない。配役の内野はいい役者だが遊び人で真面目という性格は無理だ。雷蔵といきたいがせめて若い頃の吉衛門ぐらいの色気がほしい。まあ、言い出すときりがないのでこの辺にして、藤沢小説は一見映像的な文章のように見えて、実はそうでもないということを言いたい。
映画でもやはり同じことがある。昨日の朝日の映画評でも、「蝉しぐれ」の出来に対して厳しかった。監督の黒土三男はテレビでも同名の脚本を担当しただけあって思い入れは深い。原作のもつ自然描写には丁寧に描くが押し付けがましさがある、物語も歌いあげて過剰だといわんばかりの評価だ。私はまだ見ていないがなんとなくわかる。
たしかに藤沢小説を読めば映像化の誘惑にかられるが、まずこれで成功したためしがない。というのは、言葉の技術を駆使した「映像世界」なのだ。
ちょっとそれるが与謝蕪村の句を読んでもらいたい。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
さみだれや大河を前に家二軒
いかにも絵画的で映像が浮かんできそうだが、本当に再現して撮ったらどうなるだろう。おそらくこのイメージは現出するのがなかなか困難だと思われる。仮に造形しても出来上がったものを見て、こういうのではなかったというであろう。
当然だ。歴史絵巻的とか絵画的という俳句はあくまで5,7,5の世界で構成されるものであって、カメラアイで画を切り取ることはできないのだ。
山水画の極意でいわれる「胸中山水」のようなことだ。山水画は実景を写したものではない。心象をうつしたものだ。どれほど桂林の風景が似ていようと、それは似て非なるものといわざるをえないのだ。
話の反れついでに。もし映像化があるとすれば、蕪村の「夜色楼台図」のようなことができれば可能かもしれないが。

といって映像化するなと言っているわけではない。やはり見たい。限定つきにしろ山田監督の「たそがれ清兵衛」やNHKの「用心棒日月抄」などはよかった。
今度の「蝉しぐれ」はキャスティングに期待している。
(もう少し、藤沢小説について話したい気もしている)
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