いけずな詩人、天野忠
これまで詩人という人種に会った機会は少ないと前に書いたが、このブログを始めて
次々に思い出してきた。その一人が天野忠だ。亡くなっているから呼び捨てにするが、会ったときは静かで穏やかな中にただならないものを感じる人だった。内心怖かった。
1987年頃、富士正晴という大阪の「巨匠」が亡くなったとき、京都北園町の細長い路地の奥に天野を訪ねてインタビューした。富士も天野も権威やええかっこしいを嫌ったので、天野の富士評がおもしろかった。富士のことを豆狸(まめだ)のようで変りもんだと言った。「地道なしかしいっこうに映えない安月給でムッツリと暮らす」天野の口からそういう言葉を聞くとおかしかった。自分こそ変りもんのくせにと内心思ったのだ。
「福井新聞」の記事で知った話がある。高名な詩人西脇順三郎が上洛したとき、天野は庭園を案内した。庭の見方を西脇に尋ねられた天野は、便所から見るのがいい、庭が油断しているからと答えたという。いかにも天野らしいエピソードだ。
老人にはなるな
老人になるまでに死ね
あとで
うっとりするほど
それが倖せだったと
見事な倖せだったと判る
天野は自分のような老人と繰り返して自分を規定するが、私にはそれほど老人に見えなかった。背が高いうえに身奇麗にしていて、とてもダンディにみえた。都会人のスマートさがあった。
私の隣りに寝ている人は
四十年前から ずうっと毎晩
私のとなりで寝ている。
夏は軽い夏蒲団で 冬は厚い冬蒲団で
ずうっと 毎晩
私のとなりで寝ている
あれが四十年というものか
風呂敷のようなものが
うすら 口をあけている
私たちが撮影しているとき、奥様がお茶を出してすぐ引き込まれた。奥で控えているようだった。もの静かで上品な妻女は天野と似合いだった。若い頃は美男美女のカップルだったろう。その伴侶を風呂敷のようなものと呼ぶおかしさ。この詩の中から照れている天野がみえる。
穏やかで静かに陋巷で一生を送った天野忠。その彼にけっして小さくない苦難が戦前戦中にかけて襲ったということを、私が知るのは天野と会ってから15年以上経っていた。
そのときには、天野は幽明境を異にしていた。(この表現を一度使ってみたかった)
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