殉死
主君が死んで後を追って死ぬことを殉死という。
今朝、『真説・阿部一族』を読んだ。「阿部一族」そのものは森鴎外の作品。主君の死に際して殉死をしようとして容れられず、武士道を貫いて一族滅亡の道を突き進んでゆく阿部一族の悲劇を描いたもの。熊本の細川家で実際に起きた話を鴎外は書いたのだ。ところが小説としてはよく出来てはいるが、史実の不明な個所もいくつかある。そこを埋めるようにして書かれたのが本書だ。
殉死というのはかなり古くからあったようだ。古墳の中から出てくる埴輪は、その殉死する人間のみがわりだということを聞いたことがある。
昔は厳しい主従関係があり、そのために起こるむごい処置だ、とずっと殉死したものを犠牲者だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。この阿部一族の顛末を見ると、むしろ家来がすすんで殉死をしたがっている。実行することで武士の本懐を遂げようとしている。むしろ藩の上層部はそれを押しとどめようと右往左往している。これは封建社会の主従関係の中では揺るぎない倫理なのだ。人間とは時代の倫理をすすんで内面化し、別の時代から見れば奇異な事も奇異とは思わない。
近いところで言えば、特攻隊がそうだ。高い知性の持主まで「犬死」のような死をすすんで選んだのも、当時としては至極まっとうに国を守ると信じて行ったのだろう。
とすると、今生きている我々のこの時代の倫理も、他の時代から見れば相当グロテスクなものがあるかもしれない。今在るものは、在るから自明と思い込んでいるのは愚かなことかもしれない。
『阿部一族』をめぐって有名な俳句がある。鈴木六林男の戦場俳句だ。
遺品あり岩波文庫「阿部一族」
戦闘が終わり、亡くなった戦友の遺品の中から「阿部一族」が出てきた。死者はどんな思いでそれを携行したのか、戦場でそれを読みながら何を思っていたのだろうか。
来られた記念にランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング