広島の日の、次の日(広島から遠く離れて)
広島局から東京の本部にもどったのが1995年。被爆50年の年だった。あれから22年も経ったのだ。
昨夜のNHKスペシャルは、ビッグデータという新しいツールで原爆死の解明に向かうというチャレンジングなドキュメンタリーだった。たしかに5万とか50万とかいう数字を束ねて見えて来るものがあるのは事実だが、その解析、解説を行うのが、我々も当時お世話になった広島大学の先生たちというところに、今のヒロシマがかかえている問題というか課題が見えた、気がした。それにしても、原爆式典で、核兵器廃絶の国際世論に日本が加わらないことを事上げした市長の言葉、保有国と非保有国の間に立って、両者を結びつける努力をするという首相の言葉。聴くだに空しい。まさか72年も経って、犠牲者にこのようなことしか報告できない状況が来るとは22年前には予想もつかなかったのだが。
あってほしくはないが、今後の北朝鮮のミサイル騒ぎ。いかなる波紋が波紋を呼んで負の連鎖が臨界まで達したとき・・・。想像するだけでもそら恐ろしい。こういう空想が実現させないためにもヒロシマの日は意味を持つのかもしれない。マッチョな核武装論議などが出ないように、国民ひとりひとりに「8・6」が問うてきているのだ。
日が明けると、8月7日という日はまったくヒロシマを忘れて「夏休み」「お盆」と夏の風物詩を画にしたような状景に変わる。そのものになる。区民プールも朝から家族づれで溢れかえっている。(それにしても外国人の多いこと)
私は、先月急性白血病で亡くなった鹿児島の教え子、13年前事故で墜落死した四国の教え子のふたりの人生を朝からずっと考えている。鹿児島は男性でF君、今年33。四国は女性記者でMさん、当時享年26だった。Mさんは今生きていればアラフォーになっているか。
ふたりとも番組制作の仕事を志向していたので、個人的にもあれこれ教える機会が多かった。二人とも熱心だった。
F君は結局メディアへの就職をあきらめ、故郷に帰って、高校の歴史の教師になった。寡黙だがやさしい人柄で、生徒から慕われたと聴く。去年、結婚してすぐに発症し、闘病の末に、本年7月に永眠した。
Mさんはキイ局には入れなかったが、信州のテレビ局に入り、放送記者という肩書きで地方の福祉を見つめるドキュメントを作り始めた矢先の2004年の早春。取材中の事故で殉職した。
この二つの魂を思うと心が異様に昂る。なにか人生が理不尽で不平等な気がしてならない。不適当かもしれないが、まるでヒバクシャの不条理な死と似ていると思えてならない。
白金の大学の図書館に朝から詰めて、小説を読みあさった。彼らの死を、どう理解すれば良いか指針を探した。大江健三郎の中期の作品はその手がかりをいくつか与えてくれた。午後4時過ぎまで書庫にこもっていたが、さすがに疲れてキャンパス中央にある園庭でぼんやり花を見ていた。園庭には20本ほどのさるすべりの木にぼってりと白い花がついていた。花の終わりらしく、風が吹くごとに白い花びらが細かく舞う。夏の夕暮れ、大学のキャンパス、さるすべりの白い花房・・・。
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