歴史をいかに認識するか
歴史学者上村忠男は歴史のヘテロロジー(異他性)を提唱している。
いわゆる大文字の歴史に載らない歴史があることを指摘しているのだ。1つは亡ぼされたり権力にとって都合の悪かったりして「忘却の穴」に放り込まれたもの――死者である。
もう一つは生きてはいるが、西洋文化中心から離れていて、非理性的、前理性的と思われているもの――現存在である。
この2つの側面の異他性を「歴史」の中に加えていくことの重要さを、上村は説く。
戦後の日本にあっても、2つめのヘテロロジーの欠落は長く続いた。西欧文化一辺倒で、アジアの国の文化には一顧だにしなかった。ところが2000年前後からアジア経済が急進展すると、途端にアジアがブームとなる。今、大学でドイツ、フランス語の教師が余っているという。受講者が減り、アジア言語に向かっているのだ。学生はそういう点で敏感だ。今、アジアの文化とともに歴史への関心が起こりつつある。
異他性のもう一つの側面、忘却の穴に落ちた死者の歴史。歴史はいつも勝者を伝え敗者は切り捨ててきた。大友皇子や平将門らの詳細は不明のままだ。明治維新とて、維新政府の歴史は語られるが旧幕臣の敗者の消息はほとんど闇の中にある。それは単に嫌がらせでそうしているだけではなく、もっと深い策動がある。自分にとって都合の悪い歴史の否定だ。慰安婦の問題にしても、昭和30年代の映画「兵隊やくざ」などでは朝鮮人慰安婦が登場していたが、歴史修正主義が台頭して以来、テレビ、映画などから記憶が消えていった。
今また沖縄の「集団自決」という事実もなかったことにしようとする動きがある。日本軍の守備隊隊長による自決命令などなかった、遺族補償を受ける為の方便として住民が嘘をついたという話が流れはじめている。
こういう状況にあって、先週の土曜日夜のNHKスペシャルは沖縄戦の悲劇を伝える「沖縄よみがえった戦場・読谷村」を放映した。数ヶ月前に放送されたものがゴールデンアワーに再放送されたのだ。私はこの判断を高く評価したい。本音は財源的に厳しいから再放送で凌ぐという部分があるかもしれないが、「よみがえった戦場」をそこに配置したことは言論機関として誇りをかけた措置だったのではないか。
「よみがえった戦場」では集団自決の実相が、生存者(サバイバー)の口を通して生々しく語られた。彼女たちの口を封じて、事実を「忘却の穴」に放り込むことはできない、させない、という担当者の思いを感じた。
2005年度放送された番組で、この「沖縄よみがえった戦場・読谷村」は最上の作品だと、私は思う。けっして美談化されない戦争がしっかり語られている。
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