杉の戸を
1月17日。残り2週間となった――。
今朝も寒いが、空は澄み切っている。東京がこんなに晴れ渡っているのも越後で雪雲を遮っていてくれるからだ。毎日のニュースで伝わる雪国の過疎の苦難。申し訳ない気がする。
話は飛ぶが、万葉の世界で「死」を歌うのは挽歌と呼ぶことは知っていたが、さらに自死した人の歌を自傷歌というのは知らなかった。主に辞世の歌を指すのだろう。大津皇子の歌を山本健吉がそう紹介していることが心に残った。そういえば大津皇子が落命するのは冬の季節であったか。
夕方5時。「夕焼け小焼けで日が暮れて」のミュージックサイレンが鳴っている。窓外を見やると日がまだ残っていることに気づいた。少しずつ日が伸びている。
久しぶりに企画書を作成した。長崎地方の教会堂群のことだ。一昨年、長崎から五島列島にかけて分布する教会堂群をユネスコの世界遺産登録として申請されたのだが、コンセプトが広がりすぎて採用されなかった。ユネスコの指導で、キリシタン禁教時代の教会にしぼったほうが良いとのアドバイスをふまえて2018年に再申請する予定らしい。
ちょうど、マーチン・スコセッシ監督の映画「沈黙・サイレンス」が封切られるということでキリシタンに関する話題が耳目を引くことになるだろうが、そういうことでこの企画を構想したわけでない。
先月初頭、上智大学で開かれたキリシタン文化研究会で、純心大学学長の片岡瑠美子先生が「長崎の教会堂建立の歴史的背景」を発表したことに由来するのだ。先生は狭い意味での禁教時代に絞り込むと、長崎地方の教会が果たした意味が薄れるのではないかと問いかけていた。潜伏していたキリシタンが明治の信教の自由で解放されたとき、カトリックに復帰することをめぐってかなり苦しい逡巡があった。4百年にわたって先祖から受け継いできた信仰がカトリックのそれと合致するのだろうかという迷い、悩みである。
その悩む信者たちに招きの翼を広げたのが、外国人宣教師らの手によって建造された教会堂であった。教会は単なる建物でなく、信仰の顕現としてあったのだと片岡先生は考えている。この話を聞いたとき何か脳天に響くものを感じたので、その感動を「番組」にしたいと願ったのだ。
「蛍の光」も元はスコットランドの民謡だったのが、明治の開化期に日本へ入ってきた。原曲も別離の曲だったのかもしれないが、日本語詞もそういう意味を備えている。
♪ほたるの光 窓の雪 文読む月日重ねつつ いつしか年も杉の戸を(過ぎの遠) 開けてぞ今朝は別れゆく
「杉の戸を」と(過ぎの遠)を掛けているのだ。だから後段の「開けてぞ」は杉の戸を開ける意味になるようだ。なんとなく別離にふさわしい情感をそこはかとなく抱いた。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれません
人気blogランキング