正月
2017年になった。早生まれの私も69歳。同級生からの賀状には「今年で古稀をむかえ」という文言が散見される。
といっても私自身は旧年2月の弟の死があったので、2018年は年賀状を出すことを控えた。知己諸先輩にはあいすまないが、今年は欠礼させていただくことにした。乞寛恕。
いくつになっても思うのが、冬の東京というのは本当に天気がいいのでいつも得をした気になる。今年も元日、2日といずれも冬晴れの青空が広がっている。幼い頃、故郷敦賀には年末から寒波が押し寄せ、正月でも大雪に見舞われることが一再でなかった。元朝、目覚めると軒には氷柱が下がり、目の前の田んぼは一面銀世界に変わっていた。空には黒い雪雲がどんより居座って、景気の悪い天候だったが、子供にとってはそんな風景が気に入らないわけでもない。ただ正月あそびは表日本とは違う。戸外でタコを揚げることなどありえない。東京の出版社が出している学習雑誌を開くと、男の子は凧揚げ、女の子は羽根つきを楽しむ光景がかならず描かれていた。雪のなかで正月をむかえる地方などまったく眼中にない。被害者意識丸出しでいえば、われらは「化外の民」扱い。わが故郷は辺境なのだという妙なコンプレックスがいつまでも残った。だから今でも季語に対しては過剰に気を使う。
だが、そんな私も首都圏に居を構えて23年。もはや18年すごした故郷より長くなったが、いまだに快晴の東京をむかえると、なにか得をした気になる。
一方、新雪を食べる爽快感などは消え、雪遊びで長靴のなかまで濡らした不快が入り交じった遊び心などは次第に薄れて行くのが寂しい。
浦上玉堂の伝記を読んでいて、「雪を欲す」という表現を知った。宋の時代の漢詩によく使われている。ちょっと句をひねりたくなった。
雪を欲す玉堂狂ふ会津山
陶詩杜句名残は尽きぬ年の暮
こんな句が浮かぶのも、年末からずっと『浦上玉堂伝』(久保三千雄)を読みふけっているからだろう。仙人かと思っていた玉堂が意外に生臭い生き方を選んだと知って、親近感がますます湧いた。
2018年、今年はトランプの野望がどのようになるか、沖縄の苦悩を本土がどこまで共有できるか、グローバリズムの氾濫をどう制御するか、湧き起こるナショナリズム、ポピュリズムとどう向き合うのか――考えることは少なくない。
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