山屋敷
日曜日、信濃町の慶応病院に見舞いに行き、その帰途、小石川まで足を伸ばした。12月に入って寒い日が続くなか、珍しく快晴でぬくい日だった。信濃町から水道橋に出た。神田川をわたって本郷の方へと歩く。春日通りを越えて左に折れて、文京区小日向の地名を探した。行きかう人に道を尋ねると、8百メートルほど先だという。黙々と歩いた。
伝通院を通り過ぎ 茗荷谷の交番で「切支丹屋敷の跡地はどこですか」と聞くと、親切な巡査は地図で確かめて、この裏の谷に切支丹坂がありますからその側にあるでしょうと教えてくれた。このあたりは坂道が多い。神田川の河岸段丘の地形だろうか。屋敷は段丘が少し飛び出た舌状の台地にあった。むろん今は屋敷はない。記念碑が建っているだけだ。 江戸時代キリシタン禁教令が出たあと、見つかった信徒たちはこの屋敷に閉じ込められていたと記録が残っているだけだ。なるほど舌状の離れた台地は隔離するには都合のよい地形、まさに牢獄であったろう。通常山屋敷と呼ばれた。
禁教令が出て50年後に捕縛されたシドッチが、この屋敷の最後の虜囚だ。イタリア、シシリー出身のシドッチは、禁教の日本に密入国するのは危険だと幾度も説得されたにもかかわらず、布教の思い断ちがたく、ついにマニラから鹿児島県屋久島に潜入。髷を結って二本差しの日本人に扮したが見破られて捕まったという。青い目とのっぽの体型は目立ったに違いない。捕らえられた宣教師は江戸の山屋敷に送り込まれたのだ。遠藤周作『沈黙』のモデルといわれる。
この屋敷で、幕府顧問の新井白石の尋問をシドッチは受ける。宗教以外の問答のなかで、シドッチの知性に驚いた白石は、西洋の学問を学ぶ必要性を感じ洋学解禁を幕府に進言することになる。すなわちカトリックのスペイン、ポルトガルなど南蛮の文化でなくプロテスタント国であったオランダ、イギリスなど紅毛の学問のみ解禁させたのである。これによって医学、天文学、航海術などの進んだ学問を日本はキャッチアップすることが出来て、日本のサイエンスの素地は作られていく。この潮流はついには明治維新の改革にまで繋がっていく。
現在の屋敷跡地にはモダンなマンションが建っていて、往時の気配などどこにもない。
午後3時を回って陽が翳った。八兵衛の夜泣き石と伝説が残る石がある。殉教した者を偲んだ記念の石らしい。これだけが唯一の名残りだった。
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