30年の自画像・失われた時
30年の自画像と区切ったのは、どうやらそれ以前に遡りたくないという無意識があったようだ。
今朝、まどろみの中である香りがよみがえり、「失われた時」を呼び戻した。オールドスパイスのトニックだ。34年前、大阪で仕事に就いた頃この整髪剤を使っていた。
理髪はホテル阪神の地下にあるバーバーへ通った。そこで薦められて使いはじめた。安月給だったが、ホテルの店という高級感をたまに味わいたかったのだろう。
大阪にいたわずか3年の間に阪神間を転々とした。
最初は、会社の寮がある八尾に住んだ。3畳ほどの独房だった。ハセガワさんという偏屈な管理人がいた。夏は猛烈に暑く3階立ての3階にいたので耐えられなかった。夏のボーナスでウインドファンといういんちきな冷房機を買った。今でも家電メーカーのCMを見ると嘘つきのくせにと腹立たしい。そこから見える生駒山だけが慰めだった。

盲腸で緊急入院した。その直後に、立ち直るに10年かかる心の傷(今でいうトラウマか)を負うことになる。
寮を出て奈良の王寺へ行った。王寺からさらに支線の大輪田にある公団の団地に半年だけ住んだ。新興の地だったので、バスは夜7時で終わった。駅から20分いつも歩いた。近くに大和川が流れていて、冬になると濃い霧がでた。さみしい町だった。
そこから帯解まで近かった。三島が自決して1年目、帯解にある円照寺を訪ねたことがある。最後の小説「豊穣の海」の舞台となった門跡寺だ。帰りに、帯解の駅で見た夕暮れの景色が忘れられない。晩秋の寒い日だった。
神戸の住吉に引っ越した。大学時代の友人がそこに住んでいたし、職場の同僚もいた。下町の気の置けない地だから住みいいぞと、そそのかされた。阪神住吉駅の裏手でごみごみした場所にある下駄履きアパートだった。下は大家が住んでその上に1Kの部屋が3つあり、真中に住んだ。隣りはお寺で朝夕ミュージックサイレンが鳴りうるさかった。風呂がないので近くの共同湯に行った。倶梨伽羅紋々のお兄さんと悪がきが大勢いた。この頃酒を覚えた。毎晩酔っ払った。トラウマはいっこうに消えず狭い6畳でますます鬱屈していた。
土曜日は半ドンで、仕事を終えると三宮へ行った。センター街をブラブラして「しあんくれーる」というジャズ喫茶にたまった。チック・コリアが流行っていたが、コルトレーンやビル・エバンスが好きだった。最高7時間コーヒー一杯でねばったことがある。古本屋でG・オーウェルの『カタロニア讃歌』を見つけ、つくづくスペインに行きたいと切望していた。
芦屋の打出に、大学時代の女友達が妹と住んでいた。彼女は結婚して山形へ行くことになり、アパートを引き払うことになった。その後を借りた。部屋が3つあり風呂もあった。家賃は少し高いが便利にみえたので、そこへ移ったのだ。相変わらず酔っ払っていて、お屋敷町のど真ん中で放歌して、憂さを晴らしていた。傷口から血がだらだら流れていた。
住んで半年も経たないうちに、東京へ転勤を命ぜられた。
大阪にいた3年は、私の心の奥底に閉じ込められていた。
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住吉にいた頃御影から急行に乗った