神戸行き
8月2日、家を6時10分に出た。
山手線で品川までの途中、カメラマンのNさんと偶然遭った。久しぶりだ。いろいろな事情があって、カメラを回す機会が減っているNさんだが、言葉の端々に映像に対する思い入れを感じ、やはりこの人も番組を作るのが好きなんだなと改めて知って嬉しかった。
新幹線は未明の豪雨で、小田原あたりでのろのろ運転でダイヤが少し乱れていた。来た電車に乗ったらひかりで、結局名古屋で降りてのぞみに乗りなおし、新神戸に着いたのは9時41分。駅前からタクシーで葬祭場に駆けつけると、ちょうど曹洞宗の導師が入場するところだった。
2列目に座り、亡き友Eの遺影をしっかり見る。すこし年をとっているが、昔の面差しは残して、穏やかな顔だった。若干憂いがあるように見えたのは思い過ごしか。目の前の棺のなかにEが眠っていると聞いても、にわかに信じがたい。そのあたりから、「元気かあ」と言って現れそうだ。
葬式は1時間で終了。最後に棺に花を投げ入れて終わった。
会場に、当人の生前書いておいたという遺書らしき文章の朗読が流れた。1970年大阪万博でみな浮かれていた夏、彼は職を探して大阪の街を歩き回っていたという。「ここが人生の底だった」と回顧している。その後、業界新聞の記者となり、以後41年間勤め上げたことになる。毎日原稿書きと取材に追われるが、それでも文学への志は一日も忘れたことがないと、Eの最後となった文章の後半に「決断」を述べていたのが、心に残った。
11時過ぎ、会場を後にして三宮ガード下の「珉珉」へ。ギョーザ2皿と生ビールで、陰膳めいてEの冥福を祈る。
そのあと、阪神電車に乗って東灘の住吉へ向かう。ここはEが最初に住んだ町で、2年ほど遅れて私もそこに住んだ縁の場所だ。
こんなことがなかったら、おそらく来ない下町の小さな駅に到着すると、8月のつよい日差しが駅舎をじりじり焼いていた。白茶けたアスファルトの道を歩いて、街の中ほどにある浄土真宗本願寺派の寺院を探す。その隣の文化アパートの2号室が私の「人生の底」を過ごした場所。あの頃、私はどんな目をしていたのだろうか――。Eの死を契機に、私は当時の自分を確かめたい気分でここまで来たものの、何かふんぎりのつかないもやもやしたものが胸中に漂っている。(意気地なし)
街は40年前とすっかり変わっていた。20年前の阪神淡路大震災で、この街も手ひどく傷づけられたのだから変わっていて当然といえば当然。
私のアパート以外の町並みはすっかり整備され、小じゃれた戸建てが並ぶ中、私の文化アパートは1973年のまま。まるでそこだけ時間が止まったようだ。ドアの取っ手の下にある傷もそのまま。だが、このアパートに住人はいないと思われる。人の気配がまったくない。
しばらく、その建物の周辺をうろうろした。その後、Eが住んでいたあたりを回って、JRの住吉駅に向かった。
新大阪で、小腹が空いていることに気づき、たこやき10個のセットを食す。ハイボールを飲もうかと思ったが、新幹線のなかのほうが快適だと気づきやめた。
米原を越えると伊吹山が左側に現れる。この山の向こうに、ふるさと敦賀があるのだ。
帰路、ふと思った。Eの葬儀の最後に流れた曲、中島みゆきの「糸」だった。「なぜめぐり逢うのかを私たちはなにも知らない」というあの曲だ。ピアノだけの演奏だったのだが、あれは故人のリクエストだったのだろうか。
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