友だちが死んだ
昨日、友達の妻から電話があった。夫のEが死んだと知らされた。土曜日に貧血を起こして絶息したそうだ。
5月下旬に、Eから手紙を貰って遺言のようなことが書かれてあるので、気になって、高山のTとかたらって神戸三宮まで行って、彼と会い、酒を飲んだ。最後の酒盛りになるかもしれない、とEも言っていた。肝臓がやられて大量の血を吐いたというようなことをぼんやり語った。顔が腫れていた。むくんでいると言っていいか、最初は元気だったが、1時間ほど経つといっきょに口数が減った。疲れやすくなっている、予断は許さないだろう。
三宮の改札で、Eを送った後、Tと二人で飲むことにした。三宮駅裏のさえない居酒屋だった。Tも私と同じ印象をもっていた。「せめてあと2年。70までは生きてほしいな」。2年とはあまりに短い、がそうも言っておられない。互いに皆晩年にあることを思い知らされた夜だった。
Eの妻からきいた訃報を、飛騨高山のTに伝えた。突然の電話でTも異変があったことを悟ったのだろう。「何かあったのか」と聞いた。死を伝えると、「Eの死は思ったより早かったな」と残念そうに語った。相談して、私だけが火曜日の葬式に出席することにした。教育委員会の仕事をボランティアで行っているTには夏休みは休むことができないのだ。詳しいことが分かったら後刻報告すると言って私は電話を切った。
ちょうど小林勇の『彼岸花』を読んでいて、33人の故人を偲ぶ厚情の文章に心打たれていた最中だったから、Eの訃音が入ったとき最初フィクションのようにしか思えなかった。
Eの妻とも高山のTとも話し終えて、ひとりぼんやりEやTと遊び歩いた昭和41年の夏から冬にかけての金沢の日々を思い出す。私は浅野川の、Eは犀川のほとりに住んでいて、その間を幾たび往復したことだろう。まだ金沢に市電が走っていたが、節約のため歩いた。そうして浮かした金でサントリーレッドを買い、Eの家の電気炬燵に足をつっこんで、Eの文学談義を聞いた。神戸出身の彼が金沢を選んだのは、母が泉鏡花を愛読していたからと言った。彼の名前の欣哉は鏡花の「滝の白糸」の主人公の名前である。
サークル活動などはまったく関心がない私と違って、Eは文芸部に入って精力的に創作や詩を書き始めていたし、先達の作品の研究にも余念がなかった。当時、彼は現代詩人の黒田三郎と茨木のり子に強い関心を示した。黒田の「ひとりの女に」をよく朗誦した。普段照れ屋のくせにそういうときEは黒田三郎になりきって、「ユリ」への思いを密やかに語った。
教養部から専門にあがる時、出席日数が足らないという理由で留年になった。実は私も足らなかったのだが、担当教官に泣きを入れて、追加論文を書くことで許されたのだが、Eは一度だけ請願に行ったものの、教官の態度が無礼だと二度と足を運ばなかった。そのため1年間Eはキャバレーのボーイで生計を立てる。落第して親からの仕送りに頼るのは筋が通らないという。加えて世の中の裏も見てみたいという欲求があったのだろうと、今になってEの思惑を知る。Eの姿がキャンパスの中で見かけることがめっきり減った。その頃から次第に疎遠になる。
大学がロックアウトされ、授業が休講続きになった頃、Eが退学して関西に戻ったと聞いた。しばらくすると、挨拶状が届いてある業界新聞の記者になったと報告があった。大学中退で業界新聞の記者、まるで絵に描いた文学青年じゃないか。私は少し羨ましかった。
Eの思い出は尽きない。明日、葬儀に出たあと、Eの人生をもう一度考えたい。
最後に、小林勇が好きだったという蘇東バの一節を記しておく。
人生無別離 誰知恩愛重
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