
無知の技術
テッサ・モーリス―スズキが面白いことを語っている。
「無知の技術」が今メディアに起こっている。情報技術という言葉はあるが、戦争とメディアの関係でいうと「無知の技術」こそ今発達しているのではないかというのだ。
戦争の場合、人々を理解させるために情報が提供されるのでなく、人々が理解できないように情報が提供される。あるいは、国民の関心を喚起させるために情報があるのでなく
国民を無関心にさせるための情報があるというのだ。
その例として、アグレイブ刑務所の捕虜拷問について語る。捕虜虐待とメディアは言うがあれは拷問だ。あの状況を示す写真が何枚か発表されたが、わたしたちは余りショックを受けない。なぜか。そこには無知の技術が働いていると、テッサは見るのだ。
あの写真は数枚ではなくビデオを含め数千枚あったことから、これは組織的な拷問だとテッサは疑う。そしてアメリカは拷問のテクニックを開発した。性的暴力、袋をかぶせる、窒息状態、など。加えて、その光景を写真に撮るということは、永遠に屈辱が残るという意味で、二重に拷問となるのだ。
これを計画した者はメディアの報道を想定していたのではないかと言う。そして二つのメッセージをその者は用意した。
イラクの反対勢力に向かっては、つかまればこんな拷問を受けるということ。もう一つは連合国側の国民に、つまりアメリカや日本やオーストラリアの国民に対しては、この拷問は規律を守らない一部下級兵士が私的にやったことというメッセージ。一部不心得者が先走ってやったというのだ。だからこの下級兵士らは裁判で罰をうけてそこで問題は停まってしまう。数千枚の写真がある――かなり多数がそれに関与しているという蓋然性をすべて、一部兵士で終わってしまうという巧妙な無知の技術が働いていると、テッサは見るのだ。
無知の技術は大手メディアの構造につけこんで発達してきたとテッサは分析する。メディアは締め切りとスクープに血道を上げる。だから締め切りぎりぎりで発表すれば、ほとんど当局のままの見解で報道される。だから拷問という言葉が当局から使われずに虐待という言葉で表され、メディアはそのまま流すというのだ。
テッサはスズキというラストネームを持つように、夫は日本人だ。気鋭の歴史学者として、この数年、日本の言論の場に登場することが多くなった。彼女はオーストラリアに拠点を置くので、日本を外から見る貴重な視点になりうるのだ。
ちなみに、夫の森巣博氏は作家だがもう一つの肩書は博打うちとある。
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