無明
弟の葬儀が無宗教だったことを未だに考えている。
弟のなかに信仰と呼べるものはなかったのだろうか。
たしかに父と母は日本キリスト教団所属の教会の会員でクリスチャンだったが、弟は洗礼を受けていないから会員ではない。が、祖父祖母は真宗門徒だったから一族は仏教徒だったことになるので、仏教徒といえるかというと、そういう告白は弟から聞いたことがない。でない、という否定形を重ねていくと、弟は無宗教者ということに行き着くということなるか。だが無宗教というのは当人の意思だから、彼は生前そういうことを示唆していたのだろうか。
別に宗教の種類とかにこだわっているわけではない。どの宗教であれ、自分を支えるものとしての宗教をまったく持っていなかったと断言するほどの確信が弟にはあったのかしら。
若い頃はともかく、私の場合五十の坂を越えたあたりから、生きることへの畏れが深くなってきた。人の道もそうだが、自分の身体そのものが不可思議に思えてならなくなった。この壊れやすい肉の器が存立し続けること自体奇蹟に思えてならなくなった。特に、47歳のときに脳出血を発症してから、脳内の血管が安全に運行していることがフシギというか奇蹟としか思えなくなった。
時折、首から頭部にかけて勁いハリを感じるとき、私は思わず祈っていることを自覚する。「どうか、無事であり続けてほしい、永らえさせたまえ」と。私の場合、祈りの対象は父母から受け継いだものと同一である。
二人の弟は信仰を告白していないから無宗教者ということになるのだろうか。
一方、信仰を持たないと明言する大江健三郎さんですら何かに向かって祈るということは否定していない。大江光さんが初めて言葉を発したとき、次の言葉を発するまでの短い時間、大江さんは必死で祈ったという。何に向かってか、誰に向かってか。宗教を持たなくても、祈るという「行為」はあるのだろうか。
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